「神のご計画と覚悟」
2022年10月23日 聖霊降臨節第21主日礼拝
説教題:「神のご計画と覚悟」
聖書 : 旧約聖書 エステル記 4章13節-17節(767㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
聖書は神の霊感を受けて書かれた書物です。いわば神の言葉といってもよいものです。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
とIIテモテ3章16節でパウロは彼の弟子テモテに言っています。
ですから、私たちは聖書の言葉は「御言葉」と呼びますし、私はメールを受け取れる方々には週報に書かれている聖書箇所を御言葉配信として毎日送っています。
ですが、聖書はその箇所ごとに違いがあるのです。先程私は神の言葉といってもよいものだと言いましたが、それは聖書のすべての箇所で神が直接語りかけているわけではありません。ある箇所では神が全く直接に登場しないという事もあります。ルツ記や本日の聖書箇所のエステル記がそれにあたります。
さて、本日の聖書箇所だけでは何が何やら事情がわかりません。
順を追って説明していきます。以前お話したのですが、ユダヤ人はダビデ王、その子ソロモン王の元で国を統一します。しかしソロモン王は初め主に従順であり、国と民を治める知恵を主から与えられるのですが、周りの様々な国々から妻を迎え、彼女たちはそれぞれ自国の神々をこの国に持ち込みました。やがてソロモン王は彼女たちが持ち込んだ神々を崇めるようになってしまいます。偶像礼拝です。主はソロモン王に何度も偶像を離れ、主に立ち戻るよう仰ったのですが、ソロモン王は主のご命令に従いませんでした。それを受けて、主は国をイスラエル王国とユダ王国の2つに割る決定をされたのです。主はソロモン王の在位期間にはそれをなさいませんでしたが、ソロモン王の息子レハブアムが王位を継いだときにそれをなさいました。イスラエル王国とユダ王国では偶像礼拝、不正、そして不法が蔓延(はびこ)りました。主は度々預言者を起こされ、それぞれに国に送り、「主に立ち返り、不正、不法をやめよ」と民に呼びかけました。
一時的に主に立ち返った事もあったのですが、彼らの偶像崇拝、不正、不法は止まず、最終的にイスラエル王国はアッシリアにユダ王国はバビロニア王国によって滅ぼされました。バビロニア王国に滅ぼされたユダ王国の多くの住民はバビロニアに移送されました。バビロン捕囚です。やがて、バビロニア王国もペルシャ王国によって滅ぼされました。その時のペルシャの王がキュロス王です。キュロスII世とも呼ばれています。彼は捕囚されていたユダヤ人達を解放し、故郷に帰ることを許されました。エズラ記1章にはその事が書かれています。
もちろん、捕囚の民は故郷に帰りましたが、全員ではなかったのです。本日の聖書箇所は故郷に帰らなかったユダヤ人の話です。
クセルクセス王というペルシャの王の時代の話です。この王はキュロス王の孫に当たる人物です。インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であったとエステル記1章1節に書かれていますので、相当な権力を持った王であったと思います。
さて、ある事件が起こり、王は王妃を退け、新たな王妃を迎えることにしました。何人かの候補から選ばれたのがエステルでした。要塞の街スサにモルデカイというユダヤ人が暮らしていました。彼はバビロン捕囚で連れて来られた人でしたが、彼のいとこにエステルという女性がいました。彼女は早くに両親を亡くしていたので、モルデカイが後見人として育てていました。
エステルはハダサとも呼ばれていましたが、その彼女が王妃として選ばれたのです。しかし、モルデカイは彼女が王妃として選ばれ、召されるにあたって彼女の出自(自分が属する民族と親元)を明かさないよう彼女に命じました。
さて、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子であるハマンという人物を彼の同僚の大臣よりも特別に取り立てて高い地位につけました。宰相とか今で言うところの総理大臣とかの地位かもしれませんね。さて、王は王宮の門にいる役人は誰でもハマンが来るとひざまずいて敬礼するよう命じられたが、モルデカイはこれに従わなかった。ハマンはこのモルデカイの態度に頭に来ていたのです。モルデカイは自分がユダヤ人であるということを言っていたので、ハマンが只モルデカイを殺すだけでは飽き足らず、彼の民であるユダヤ人を滅ぼそうと決心します。
そして、ハマンはユダヤ人の他の民と交わらないという独自性や王の命令に従わないという反逆性を王にアピールし、王に彼らを根絶する命令を出させました。
これはモルデカイ達ユダヤ人にとって大事件です。彼のそしてユダヤ人の嘆きは相当なものでした。
「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。」(エステル記4章1節、3節)
と書かれている通りです。
そしてモルデカイは自分のいとこであり、養女であり、王妃となったエステルに、王に嘆願し、この命令を取り消してくださるようお願いする依頼をしました。もちろん、モルデカイは彼女の親類であり、養ってくれた人であり、何より自分も含めてですが同胞が滅ぼされるのを黙って見ていようとは思ってなかったはずです。
しかし問題が一つあったのです。王妃エステルはこのように言いました。「王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」
つまり、王妃エステルはしばらくの間、召し出されて王に会うという安全に王に会う機会がなく、もし王に会い、ユダヤ人を救うよう嘆願するとすれば、処刑されるというリスクを取らなければいけないということを彼女は言っているのです。
そして本日の聖書箇所へと繋がるのです。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。」とモルデカイは彼女に言うのです。
つまりリスクを取らないで黙っていたとしても、自分がユダヤ人であるとバレてしまうかもしれないですよ。その時王妃だとしても無事だとは限りませんよということです。先代の王妃もある事件がきっかけで退けられました。さらに、モルデカイは続けます。
もし、エステルがこの嘆願をしないのであれば、このユダヤ人の危機からの解放は別の所から起こり、彼女自身と彼女の父の家は滅ぼされるという事とこのユダヤ人危機からの解放のためにエステルが王妃になった、いや、されたとモルデカイは言うのです。つまりこの一連の出来事、エステルが王妃になった事、ユダヤ人の危機、王妃になったエステルによるこの危機からの解放もすべて神のご計画だという事です。さらに、例えエステルが神に与えられた役割を拒絶したとしても、神は新たなユダヤ人の救いを起こすことがお出来になられる方である事です。そして、神から与えられた任を拒絶した場合のペナルティは彼女と彼女の家の破滅であるということをモルデカイは言っているのです。
確かにモルデカイの言っていることは納得できるのです。士師記を読めば神は何度も異邦人の支配からユダヤ人を救う士師と呼ばれるリーダーを起こされました。また、ユダ王国がバビロニア王国に滅ぼされたのも、またペルシャによって救われたのも聖書によれば神によるものでした。
この聖書箇所では何一つ超自然的な現象は出てきません。神の臨在、預言、奇跡といったものが出てこないのです。ですが、これが神のご計画であるということがわかるのです。ですが、たとえ、神のご計画であっても自分の命は惜しいものです。もしかしたら処刑されるかもしれないというリスクです。もしこれが何のリスクもない、危険もない事で神のご計画であったのなら、彼女は何も言わずに従っていたでしょう。ですがこれは違います。ここでは彼女の覚悟が試されたのです。信仰が試されたのです。そして、彼女は決断しました。神に与えられた役割を担うという決断をしたのです。
彼女は自分自身と女官に三日三晩断食をすることを決め、スサにいるすべてのユダヤ人たちにも同じ様に断食をするよう求めました。彼女の覚悟と信仰がいかにすごいものだったのかがわかります。最後に彼女はこう言いました。「…このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
(エステル記4章16節)
彼女は自分の命を神に預けたのです。これほどの覚悟、信仰を持つことは難しいと思います。主イエスは御自分が十字架で亡くなられることを父なる神のご計画として知っており、それを受け入れました。私たちの教会員の方もご自身の死を受け入れました。
神は私たち一人ひとりにご計画を持っておられます。創世記のヨセフの話をご存知でしょうか?彼は兄弟たちのやっかみでエジプトに売られましたが、神のご計画により、宰相の地位にまで上り詰めました。そして、彼の父や兄弟たち家族を食糧難から救いました。彼はこう言いました。
「…命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45章5節)
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50章20節)
先程も言いましたが、神は私たち一人一人に対してご計画を持っていらっしゃるのです。私も自分がアメリカの大学に留学し、帰国して後、またあらためてアメリカの神学校に留学し、帰国後、ナザレン教団に入り、ナザレンの神学校に入学し、そして浦和教会で伝道・牧会するという事を想像もしていませんでした。しかしこれもまた神のご計画であると思い、受け入れております。神のご計画は時として厳しいものです。本日の聖書箇所に出てくるように命を神に預ける事もあるかもしれません。ですが、そこで 私たちの覚悟と信仰が試されるのです。
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