「神の国の食卓への招き」
2022年2月13日 降誕節第8主日
説教題:「神の国の食卓への招き」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 14章12-24節(137㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
宴会と聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?会社勤めの方であれば、忘年会、新年会、新入社員歓迎会、送迎会などを思い浮かべるかもしれません。四月であれば、花見などを思い浮かべるかもしれません。さらには、結婚式の披露宴、同窓会、政治家のパーティなど挙げれば、きりがありません。しかし、どんな宴会でも、招かれる人にはある一定の基準もしくは資格というものを持っていなければなりません。主イエスが仰る神の国の宴会に招かれる基準もしくは神の御心にかなった宴会に招かれる基準とはこの世の宴会で招かれる基準とだいぶ違っています。
「宴会を催すときは、友人、兄弟、親類、近所の金持ちではなく、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と主イエスは仰いました。これはこの世の考え方の基準とは違うと思うのです。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を支援するパーティのようなものは開かれるかもしれません。しかし、一般的に、宴会にはたいてい友人、兄弟、親類、近所の金持ちという人々が呼ばれますし、さらには会社、親戚、友人、学校などの様々なグループによって分けられます。主イエスが仰っている見ず知らずのそれらの人々を呼ぶような宴会が開かれるのはまずないかと思うのです。今でもそういう人々に対して偏見がありますし、主イエスが生きておられた時代であれば、なおさらだったと思います。しかし、主イエスはそのような見ず知らずの人々を宴会に招きなさいと仰いました。そして、理由としてはそのような人々はお返しが出来ないから、正しい者たちが復活する時、報われると仰いました。これだけを聞くと何か打算的な響きがあります。しかし、ここで重要なことは神はこのような社会で何かと不自由をしている人々を気にかけているということではないでしょうか?
主イエスが生きておられた時代というのは今の世の中に比べてこのような社会で不自由にしている人々に対しての風当たりは強かったと考えます。罪人、徴税人、病人、目の不自由な人、足の不自由な人は社会から差別され、取り残されていました。皆さんは覚えているでしょうか?主イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をした時、律法学者達が主イエスの弟子達に「なぜあなたの師匠は罪人と食事をするのだ?」と聞かれた時、主イエスが彼らに何と答えられたかを。「健康な人に医者はいらない。」です。そして、主イエスは度々徴税人や罪人と食事をし、病人、悪霊に憑かれた人々を癒やし、貧しい人々と共に行動しました。主イエスは父なる神の御心を行っていたのですから、当然父なる神もまたこのような人々を気にかけているということです。つまり、金持ちや普通の人々よりもこのような人々こそ宴会に招かれるべきであり、招かれた時、素直にその招きを受け入れるということではないでしょうか?
主イエスはさらに、神の国の宴会について述べます。これは主イエスと共に食事をしていた客が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言ったことを受けてのことです。
ある人が宴会を計画し、大勢の人を招きました。いざ準備が整ったので、招いていた人々に僕を送り、宴会に来るよう言ったのですが、招待客が様々な理由をつけて断ってきたということです。
僕はその主人に事の次第を報告すると、主人は先程の貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れてきなさいと僕に言うと、僕は彼らを連れてきました。それでも、まだ宴会の席に空きがありますと僕が言うと、無理にでも人々を連れてきて席をいっぱいにしなさいと主人が言いました。さらに、主人はあの招かれて断った人達は彼の食事を味わうことはないと言った。
神はアブラハムを選び、そして彼の子孫であるイサク、ヤコブそしてイスラエル人を選ばれました。そしてエジプトで奴隷状態であったにもかかわらず、神はモーセを選び彼らを解放しました。しかし、彼らは何度も神を拒絶し、他の神々を崇拝し、もしくは自分達の心の赴くままに行動してきました。この状態こそが、この最初に招かれた人々が招待に応じなかった状態なのですね。その理由を見てみますと「畑を買ったので、見に行かねばなりません。」「牛を二頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。」「妻を迎えたばかりなので、」といったものです。つまりどういうことかといいますと、自己都合なのです。イスラエル人たちも自分達の都合で行動したいという自己都合で神の招きを拒絶したのです。神の国の食卓につき、食事を共にするという特権を放棄したのです。どぶに捨てたのです。畑を見にいくのは神の国の食卓で食事をすることより重要でしょうか?牛を調べに行くことは神の国の食卓で食事をすることより重要でしょうか?神の国の宴会で食事をしてからそれをしたって良いのではないでしょうか?いや、むしろそれらをいっそのこと手放したって良いのではないでしょうか?結婚したのならその人と一緒に宴会に出ればよいのではないでしょうか?
最も大切なことは神の招きに応じることです。自分の中に様々な物を持っているとそれが重しになり、本当に大切なものがわからなくなるのです。だからこそ、「貧しい人、目の見えない人、足の不自由な人」が先に神の国の食卓に招かれるのです。いや、もしかすると自分の中に様々な物を持っていると神の国に入ることが出来ないかもしれません。事実神は「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と言われているのですから。だからこそ、私達は自分の中にあるそういった妨げる物、私達にとってみれば、重要に見えるのだが、神の前にあっては無価値なものを排除しなければならないのです。いや、排除してもらわなければならないです。その時に私達は神の国の食卓の素晴らしさを理解し、その食卓に着くことができる特権を神に感謝することが出来るようになるでしょう。
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