「神の子の自由」
2023年5月7日 復活節第5主日
説教題:「神の子の自由」
聖書 : 旧約聖書 申命記 7章6節-11節(292㌻)
新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章23節-4章7節(346㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
規則というものは私達が生活していく上で必要な物ではありますが、あまりにも多い規則は私達を幻滅させたり、時にはイライラさせたりします。そして本来規則ではなく、お願いなのですが、規則のような物が私達の身の回りには多くあります。例えばマスクの着用です。もちろん、これは法律に基づいた規則ではないのですが、新型コロナウィルスが始まって以来、うがい、手洗い、消毒、マスクの着用をすることや、ソーシャルディスタンスを取るよう呼びかける放送が様々な施設で聞こえていました。
私はよく浦和駅前のパルコの地下にあるヤオコーに買い物に行きます。品揃えがいいのでそこに行くのですが、そこでも最近までそういった放送が聞こえ、さらには私達にソーシャルディスタンスを取らせるためにレジに並ぶ位置を示すテープまで床に貼っていました。ああ、私もこの事に批判は出来ませんね。教会でもソーシャルディスタンスのシールを長椅子の背もたれに貼り、そして座布団の上にプレートをつけていますから。
ですが、このヤオコーの放送が変わったのです。「政府の決定を受けマスクをするかしないかはお客様の自由とします。しかし、従業員は引き続きマスクを着用します。」という具合です。うがい、手洗い、消毒、ソーシャルディスタンスの事を放送では 触れず、いつの間にかソーシャルディスタンスを示すテープは剥がされていました。もちろん、私達は今までの経緯からすぐにはマスクの着用をやめることはないと思います。実際そのスーパーでもマスクをしていない人たちは少数でした。ですが、私達は何か、知らず知らずにこのスーパーが流している放送に従っている気がするのです。
その他では電車内の放送があります。携帯のマナーに関しては「マナモードにして通話は控えて、優先席付近では電源をお切りください。」や手荷物に関しては「リュックなどは前に持つか、網棚に置いてください。」などです。駅構内では「歩きスマホをやめましょう。」や「エスカレーターは立って手すりにつかまりましょう。埼玉県ではエスカレーターを歩くことが条例で禁止になりました。」というような放送も聞こえます。
もちろん、これらの放送されているものはマナーといわれるもので規則ではないのですが、大体私達は守っています。それは私達がそのマナーが正しいと思っており、そのマナーが作られた理由が正しいと思っているからであり、なおかつ他の多くの人々が行っているのに自分だけ行わないのは悪いし、非難されるからです。
私達はこういう思いをもちつつもそこまでいちいち指示されなければならないのかとも思うのです。例えば電車内でリュックというかナップザックをどう持つかにまで事細かに指示されなければならないのかと思うのです。もちろん、他人に迷惑をかけてしまうのは良くないのですが。
本日の最初の聖書箇所は申命記という書です。以前も説教でこの書を取り上げたのですが、これは死んでゆくモーセの、イスラエルの民に対する遺言であると申し上げました。正確に言うとイスラエルの民の次の世代に対する遺言というべきかも知れません。というのもモーセの世代はモーセも含めてヨシュアとカレブ以外は全員、砂漠で死に絶えたからです。なぜなら、イスラエルの民は度々主に逆らったからです。そして決定打となったのがヨシュアとカレブを含んだ偵察隊がカナンの土地を取るためにそこに偵察に行って民の所に戻ってきた時、ヨシュアとカレブ以外の偵察隊の人たち全員がその土地を取れないだろうと報告し、民の士気を挫(くじ)いたからです。その事が原因でヨシュアとカレブ以外のその世代の民は40年間の砂漠の生活の中で朽ち果て、その次の世代が神のお約束された土地に入ることが出来ると神は宣言されました。そういう意味でモーセの次の世代への遺言というように言えると思います。
ですが、この申命記を別の角度から見ていくことも出来ます。
旧約聖書ではモーセの五書、律法(ユダヤ教ではトーラ)、ペンタテュークと呼ばれる書があります。それらは「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」そして本日の「申命記」となります。これら五書は旧約聖書では重要視されるものです。
さてこの「申命記」という言葉は漢訳から来ています。「申」というのは「ふたたび」という意味です。「命」とは「律法」を意味します。再び律法ということですね。ですから第2の律法というように私達は捉えてしまうのですが、第2の律法ではなく、律法の「写し」もしくは「繰り返し」と捉えます。英語では申命記を「Deuteronomy 」というのですが、これは70人訳というギリシャ語の旧約聖書のタイトルから来ているもので、これも律法の「写し」「繰り返し」ということです。さらにこの申命記はヘブル語では「デバリーム」と言い、単に「言葉」という意味です。
長々と話してきましたが、「律法」それ自体は「申命記」の前の「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」に書かれています。
「申命記」で何か第2の律法が与えられたということではなく、モーセが再び前に与えられた律法の説明をしているということです。ですが、律法であるには変わりなく、この律法とはヘブル語でいうところの「言葉」すなわち神の「言葉」であるとも取れるのです。
さて本日の聖書箇所では申命記の中で事細かい律法の規定が書かれているわけではありません。イスラエルの民に対しての神の祝福から始まります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」
申命記7章6節です。
「主の聖なる民」、「すべての民の中からあなたを選び」「御自分の宝の民」という素晴らしい祝福をイスラエルの民は与えられたのです。このように言ってしまうと、それだから彼らの選民思想に拍車をかけてしまうのだという否定的な意見が出てくるかも知れませんが、彼らは特別なのです。
しかし、彼らは彼らが素晴らしかったから選ばれたのではない、神が彼らを愛し、また彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの約束を守られたから、彼らを選び、エジプトから助けたのだとモーセは言っているのです。つまり神は愛に満ち、そして誠実であるということを彼は言っているのです。
(申命記7章7節から8節)
そして、9節から10節にかけては神の律法を守れば、祝福されるが、神の律法を破り神に反対する者は滅ぼされるとあります。
単純明快であります。だからこそ、神の掟と法を守りなさいとモーセはイスラエルの民に警告をしているのです。ですが、この警告にも関わらず、神の愛、神の恵み、神の誠実さによって約束の地に踏み入れた子孫たちは神の律法を破り、神に反逆し続けるのです。神は彼らに罰を与えるのですが、彼らを滅ぼし尽くしませんでした。それは神の憐れみによるものです。
さて、本日の第2の聖書箇所ですね。ここでは信仰と律法の事が話されています。ガラテヤの信徒への手紙3章23節です。
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」
「わたしたちは監視され、閉じ込められていました。」とありますね。どういうイメージですか?まるで罪をおかして刑務所にいる罪人や収容所にいる奴隷ですね。そして律法が刑務官や奴隷の主人のようです。全然いいイメージないですね。私もこんな所に入りたくないです。自由が全く無いです。
この聖書箇所では律法は刑務官や奴隷の主人ではなく、養育係と前の2つの表現よりもいいです。たぶんですが、パウロは私達が成長するというイメージで捉えているので、律法を養育係としたのだと考えられますね。「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」とパウロは25節で言っているのです。つまりは、私達は律法に支配されている刑務所の罪人でもなく、奴隷の主人によって支配されている奴隷でもなく、養育係によって面倒を見てもらう幼子でもないということです。
第一の聖書箇所では神の律法から離れるということは神に対する反逆であるということを申し上げました。その反逆をし続けたために、イスラエルの民は罰を受けてきたということを言いました。
今回も律法から離れることです。ですから、一見すると神に対して反逆したように見えるかも知れません。事実、パウロに敵意を抱いていて、異邦人にもモーセの律法を守らせるよう主張しているキリスト者にとってはそう見えたであろうし、これより前、すなわち、主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時にも、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々は主イエスは律法を自身でも破り、他の人々にもそのように教えていると考えていました。
ですが、違うのです。ここでパウロが言っているのは霊的な成長であり、神の子の自由なのです。私達の成長を考えてみましょう。
私達が小さい頃は特に親、家族、学校の先生などに口うるさく何々しなさいと言われてきたと思うのです。しかし、やがて私達が成長するにつれて、大人になるにつれて、そういう事を頭ごなしに命令することはなくなったと思うのです。つまりより自由になったということです。もちろん、様々な家庭がありますので、一概には言えないのですが。
パウロはこの子供から大人への成長をより具体的に語っています。29節で「アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」と言っています。第一の聖書箇所でイスラエルの民が神から選ばれた民であり、神に祝福されていると申し上げました。
そして彼らはアブラハムの子孫であり、神は彼の子孫を祝福すると約束したので、その恩恵を彼らは受けているということです。
しかし、パウロは異邦人であるガラテヤの信徒もまたアブラハムの子孫であり、神からの祝福を受けると宣言するのです。
なぜでしょうか?
それは彼らが「キリスト・イエスに結ばれて神の子」だからです。それは「洗礼を受けてキリストに結ばれ、キリストを着ている。」からです。「キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
ガラテヤの信徒達は元々信徒になる前までは偶像礼拝や世に仕えてきたということが3節に書かれています。しかし、そういう物からもガラテヤの信徒は贖い出され、神の子とされたのです。ですから、この養育係である律法、そして偶像礼拝やこの世から離れることは私達の信仰によるのです。そこには神の子の自由があります。私達の信仰を増してもらえるよう、主に祈りたいと思います。
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