「神の家族」
2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝
説教題:「神の家族」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 12章46-50節(23-24㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
家族というものは私達にとって大切で必要な存在だと思います。もちろん、結婚をしない人生を送られる方々もいらっしゃいますので、結婚をし、家族を作ることが絶対であるというわけではありません。しかし、私達は父と母から生まれてきましたし、ある一定の年齢が来るまで、家族の中で育てられてきました。ですので、家族というものが私達にとって大切かということがこれでおわかりかと思われます。キリスト教にとっても家族というものは大切だと考えられています。例えばパウロがコロサイの信徒へ書かれた手紙の中でキリスト者の家族とはどうあるべきかを述べている箇所があります。コロサイの信徒への手紙3章18節から21節です。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」現代の価値観からすると多少受け入れがたい面があるかもしれません。例えば「夫に仕えなさい」、「どんなことについても両親に従いなさい」などです。しかし、私は18節から21節の中に家族メンバーがお互いに仕え合う関係を見て取れます。18節には妻の夫に対しての義務が書かれていますが、19節には夫の妻に対しての義務が書かれています。20節には子供たちの両親に対する義務が書かれていますが、21節には父親たちの子供たちに対する義務が書かれております。そういう意味でこの箇所は互いに仕え合うという家族関係でありなさいというパウロのコロサイの信徒へのアドバイスだと考えます。そしてキリスト教では家族の関係がいかに大切かということがわかる箇所です。
さて、本日の聖書箇所です。「そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。』」マタイによる福音書12章47節から49節です。皆さんは主イエスがおっしゃられた「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」という言葉や「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」という言葉を聞き、主イエスに対して「ご家族をないがしろにしたのではないか」と思われたかもしれません。ご自分の母や兄弟たちが来られているにも関わらず、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」なんて言い、家族を否定するような事を言うなんてひどいのではないかと思われたかもしれません。確かに現代の価値観でも、ひどいのですが、当時のユダヤ社会からみてもひどいと思われます。なぜなら、当時ユダヤ社会でも家族はとても大切な存在でした。律法にも「あなたの父母を敬え。」と書かれております。
しかし、冷静に状況を見ていくと違うことが見えてきます。まず、本日の聖書箇所の一番初め、46節です。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」主イエスの母と兄弟たちが主イエスに何を話したかったのかはわかりません。しかし、彼らはその群衆の中に入るでもなく、外に立っていたわけです。そこに主イエスとの距離感そして群衆との距離感を感じます。彼らは群衆のように主イエスの御言葉を聞こうとしていたわけではありません。さらに言うならば、彼らの望み通りに主イエスがしようとしたならば、主イエスは説教を中断しなければならなかったと思うのです。それは神の御心でしょうか?あまり私自身の事を言うべきではありませんが、もし今、私の母や弟が教会に来て話があると言われても説教を中断することは出来ないかと思います。もしかすると何か地震などの非常事態が起これば別ですが。話を元に戻しますと、主イエスの母や兄弟たちの行為は父なる神の御心にそぐわなかったということです。その時の神の御心とは主イエスが御言葉を述べ伝えることであったはずなのです。もちろん、家族を大事にすることは大切ですし、実際、私にも母や弟がおりますので、大切にしたいと思っております。しかし、主イエスがおっしゃられているのは優先順位の事だと思うのです。御言葉を述べ伝えることの方がその事を中断して家族と話をする事よりも大切だったということです。だからこそ主イエスはこのように言われたのではないでしょうか。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」49節から50節です。ここに「神の家族」の形があります。それは血縁やしがらみを越えたものです。実際に血縁やしがらみによって神の家族を作ることの妨げになることもあります。例えば同じくマタイによる福音書13章54節から58節には主イエスが故郷ナザレで受け入れられなかったことが書かれています。
「天の父の御心を行う人々」、「同じ神を信じる人々」、「同じ信仰を持つ人々」の共同体である教会が神の家族なのです。私達は主イエスを信じたからこの神の家族に迎え入れられたのです。それは主イエスが十字架の上で私達の罪を贖ってくださったことを私達が信じたからです。そしてそれは神から無償で私達に与えられた恵みです。私達はこの神の家族に迎えられたという特権を自覚しつつ、何が神の御心かを考えつつ日々歩んでいこうではありませんか。
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