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「神の富」

2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日礼拝

説教題:「神の富」

聖書 : 新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3-14節(352㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 この手紙は紀元62年頃ローマの獄中から使徒パウロがエフェソにある異邦人のキリスト教徒の教会に書き送った物です。エフェソはトルコ西部の小アジアの古代都市です。また、パウロがこの地で伝道をしていた頃、ここはヘレニズム文化に影響されていたギリシャの都市で、アルテミス崇拝の盛んな地でした。このアルテミス崇拝という土壌がこの地で伝道をしていたパウロをある騒動に巻き込ませるのですが、そのことは使徒言行録19章21節から40節に書かれていますので、後で読んでおいたほうがよいかもしれません。またパウロのこの地での伝道に関してお知りになりたい方は同じく使徒言行録19章全体を読んで見るとよいかもしれません。ここにはパウロのこの地での伝道においての成功した部分、困難さが書かれています。 


 さて、本日の聖書箇所に入っていきます。エフェソ信徒への手紙1章3節です。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」とあります。挨拶として1節と2節がこの前にあるのですが、初めに父なる神への賛美から始まります。これは、キリスト教徒として当然と言えば、当然です。私達もよく信者同士または教職同士でこの様な言葉で手紙またはメールのやり取りをし始めるのではないでしょうか?例えば「主の御名を賛美します。」という具合です。しかし、この手紙に書かれている「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」という文は単なるキリスト教徒の間の挨拶文ではないのです。それは次の「神はわたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」という文で表されています。この文は前の文の理由なのです。私達がキリストの父なる神をほめたたえる理由は、その神がキリストにおいて、私達に霊的な祝福を与えてくださったからだと言っているのです。 


 ここで重要な言葉は2つあります。「キリストにおいて」という言葉と「霊的な祝福」です。本日の聖書箇所に「キリストにおいて」という言葉は何回出て来たでしょうか?五回です。3節、4節、9節、11節、13節です。「御子において」(7節)、「イエス・キリストによって」(5節)、「御子によって」(6節)もまたキリストとの関係で前の「キリストにおいて」と同じと考えると、八回となります。それだけこの「キリストにおいて」という事が私達にとって重要なのです。私達にとって「キリストとの関係」が重要なのです。もっと言うならばわたしたちにとって「キリストとの関係」がすべてであると言っても過言ではないのです。主イエス自身がこうおっしゃっています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節)私達は主イエスに繋がっているでしょうか?私達と主イエスとの関係は良好でしょうか?もし、そうでないなら、主イエスと和解し、もう一度主イエスと繋がるようお願いしてみてはいかがでしょうか?

 

 この「キリストにおいて」以外の重要な言葉として「霊的な祝福」があります。旧約聖書の時代神からの「祝福」というと物質的な物が多かったように思います。アブラハム、ヨセフ、ヨブ、ソロモンなどは物質的に神に恵まれたという印象を持っています。しかし、パウロがこの手紙で述べている「祝福」は物質的な物ではなく、霊的なものです。それこそが「神の富」なのです。


 具体的には第一に私達がキリストにおいて神に選ばれた事が挙げられます。4節、5節、6節を御覧ください。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」注目すべきは神が天地創造の前から私達を選んでくださっていたということです。具体的な神の選びとは私達を聖なる者、汚れない者、神の子とさせていただき、そのことによって私達が神様をほめたたえるという御計画です。ここに神と私達との良好な関係があるのです。私達はこのような神と良好な関係を持つよう神に造られたのです。しかし、私達はアダムとエバの罪によって、そしてその後の私達自身の罪のために神との正常な関係を持つことが出来なくなったのです。       


 だからこそ、私達の罪の贖いが必要でした。そのために主イエスは亡くなられたのです。7節にこう書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」「御子の血によるわたしたちの罪の贖いと赦し」が第二の神の霊的な「祝福」であり、「神の富」なのです。そして、これは神の恵みであり、この恵みによって私達に知識と理解と神の御計画を知らせて頂いたのです。9節に書かれています。この神の御計画の知識と理解は第三の神の霊的な「祝福」です。そして、私達は「約束されたものの相続者とされました。」とあります。11節です。これが第四の神の霊的な「祝福」です。 


 これらの霊的な「祝福」や神の富とよばれている物はキリスト者以外の人々にとっては価値がないかもしれません。むしろ旧約聖書に出てくるような物質的な祝福の方を願うのが当然なのかもしれません。実際神社などには「受験合格」「家内安全」「無病息災」といった絵馬などで溢れています。もちろん、わたしはキリスト者がそういった願いや祈りをしてはいけないという事を言ってはいません。しかし、私達キリスト者はパウロがこの手紙で言っている霊的な「祝福」に着目すべきであり、これらは私達の努力で与えられたものではなく、神からの一方的な恵みによって与えられたものだということを忘れてはいけないと思うのです。そして、これらの神からの霊的な「祝福」、「神の宝」を受けたという確信は聖霊を受けることによって来るのです。13節でパウロはこう言っています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」先週のペンテコステ礼拝で私はキリストの弟子である使徒と呼ばれる人々が聖霊を受け、異言という奇跡を行ったことを話しました。パウロは使徒だけでなく、このエフェソという異邦人中心の教会の信者もまた聖霊で認証されていると言ったのです。そして、このパウロの言葉は今を生きるキリスト者である私達にも当てはまるのです。

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