「神の思いと人の思い」
2021年3月7日 受難節第3主日礼拝
説教題:「神の思いと人の思い」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書16章21-23節(32㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
もし、皆さんの知人が何か問題を抱えていて、その事を話された時、相談に乗るという事もあるかと思います。その方が精神的に悩んでいるのであれば、心療内科に相談した方が良いのではないかとか、病気であれば、どこどこの病院に行った方が良いとか、なにか犯罪に巻き込まれそうであれば、警察に相談したほうが良いとか、私達はそれらの問題を解決するためにアドバイスをします。
本日の聖書箇所で主イエスはご自身がこれから、エルサレムで苦しみを受け、殺されて、三日後に復活することを弟子たちに言われました。主イエスがなぜこの事を弟子たちに言われたのかはわかりません。この事に対して不安を抱えていたから口に出したのかもしれません。主イエスご自身がヨハネによる福音書12章27節でこう言われているからです。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」また、主イエスが不安を抱えていたから、この事を口に出したのではなく、弟子たちにこれから起こる事を予め伝え、彼らが動揺しないようにするためであったのかもしれません。この後、主イエスが言われたことは実際に起きましたし、その時弟子たちは動揺どころか絶望しました。
しかし、21節の主イエスの受難、死、そして復活、特に受難と死の宣言は主イエスの弟子たちに不安を与えたのは容易に想像できます。この前、私が神学校でお世話になった先生が召天されましたが、神学校時代、何度かその先生がご病気の事をお話されました。とても不安に思った事を今でも覚えております。主イエスの弟子たちもそのような思いだったのかもしれません。そして、彼らが自分たちの先生がそのような悲惨な運命から逃れることを願うのは人間的に見れば当然だと思われるのです。先生と弟子という関係とは違うかもしれませんが、知人が問題を抱えていたとすれば、その問題を解決するためにもしくはその問題を回避するためにアドバイスをする事に似ているかもしれません。ですので、弟子のペトロは22節で主イエスにこう言ったのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」このペトロの言葉に対して主イエスは何と答えられたでしょうか?23節です。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
人間的な感覚からすれば、弟子のペトロは主イエスの事を心配して言っているのに主イエスはずいぶんひどい事をペトロに言うのだなという印象を受けます。ですが、ここで重要なことはこの人間的な感覚なのです。御言葉で言えば「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということなのです。主イエスが21節で言われたエルサレムで苦しみを受け、死んで、三日目に復活することは父なる神によって定められたことであったのです。これは主イエスのこの地上にきた目的でありました。なぜなら、そうすることで、主イエスは私達の罪を贖うことが出来るからでした。ですので、ペトロによる一見すると主イエスの身を案じる発言も主イエスにすれば、父なる神のご計画と主イエスがこの地上に来られた目的を台無しにする行為だったのです。だからこそ、23節に書かれたように主イエスの厳しい答えとなったのです。主イエスの23節の答えは同じマタイによる福音書4章1節から11節に書かれていた荒野でサタンが主イエスを誘惑した事を思い出させます。ここでサタンは断食をしていた主イエスを、食べ物を与える事、安全を与える事、そしてこの世の栄華を与えることなどで誘惑しますが、主イエスはそれらを退けます。10節で主イエスはサタンにこう言われました。「退け、サタン」これは23節でペトロに言われた「サタン、引き下がれ」と同じです。ペトロの人間的に見れば道徳的で素晴らしい、主イエスの身を案じる発言も荒野でのサタンの誘惑と同じなのです。ここに神の思いと人の思いの違いがあるのです。私達はこの世の中に生きています。
この世の中で明らかに間違った事に関しては反対する事は容易です。しかし、世の中には一見すると、常識的にも、倫理的にも、道徳的にも、そして法律的にも正しいとされる事があります。しかし、それが神の思いとかけ離れている事があります。そして、私達がその事に反対する事は難しいのです。なぜなら、私達は常識、倫理、道徳、法律で縛られているからです。もちろん、わたしはこれらが不必要であると言っているのではありません。しかし、この常識、倫理、道徳、法律で認められた考え方、人の思いが神の思いと反対する時が来ます。いや、そもそも私達は神の思いを気づくことすら困難です。私達に神の思いを気づかせてくれるのは聖霊ですし、神の思いと人の思いが敵対する時、神の思いに私達の思いを合わせることを助けていただくのもまた聖霊です。
ペトロがこの22節でこのような発言をする前、13節から20節で彼は主イエスに信仰を告白しました。16節で彼は主イエスにこう言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主イエスは彼に答え、こう言いました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」主イエスにこのように褒められたペトロが次の箇所では主イエスに「サタン、引き下がれ」と言われてしまいます。しかし、これが人間なのです。ですから、人の思いではなく、神の思いに焦点をあわせられるように神に祈ろうではありませんか。
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