「神の掟と人の掟」
2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日
説教題:「神の掟と人の掟」
聖書 : マタイによる福音書 15章1節-9節(29㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
最近では法令遵守、英語で言えばなんでしょうか、コンプライアンスとかハラスメントとかいう言葉を聞きます。一昔前はそういった事を私たちは考えてきませんでした。ですがこれだけこれらの言葉を聞くということは私たちの社会が昔に比べてよい社会に向かっているということでしょうか?確かに私たちがそういったことを意識することによって、昔であれば当たり前であった事、たとえそれが悪いことであってもまかり通っていたことが今では法律に違反したり、ハラスメントになってしまうということになってきています。そういう意味では良くなっているのかもしれません。ですがあまりそれを声高に言いすぎることによりかえって私たちは生きづらくなってしまうかもしれません。
例えば男女間の言動で問題があった場合いままでは男性からの女性に対する言動が非難されてきました。しかし昨今で女性の男性に対する言動も非難され始めました。例えばある女性フリーアナウンサーがSNSで男性の体臭について発言をしました。「ご事情があるなら本当にごめんなさいだけど、夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので、1日数回シャワー、汗ふきシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」という内容でした。今はもう削除されていますが、発表されてから多くの批判が寄せられました。炎上したということです。
それらの批判というのは「匂いがあるのは男性だけではない。女性でも香水の匂いがきつかったりするが、それを言えばセクハラだと言われる。ではなんで女性が男性に対して匂いの事を言うのは良くて男性が女性に言うのはセクハラになるんだ。男性差別ではないか。」、「外で仕事をしていてそんなに日に何回もシャワーなんて浴びられない人もいる。そういう人たちのおかげであなたたちアナウンサーはそういう快適な場所で仕事ができているんじゃないか。彼らに失礼とは思わないんですか。」といった内容でした。
結局彼女は謝罪に追い込まれましたが、契約事務所からは解雇されてしまいました。彼女はハラスメント防止講座で講師を務めていたことも非難を助長させた理由であると言われています。このようなハラスメントにおける言い合いというのは(一方的に言うことも問題ですが)私たちを生きづらくさせると思うのです。
もちろん私たちはコンプライアンスやハラスメントを指摘しなければならない場合も数多くあります。これほどこれらの事が言われていながら、平然と行われていたことも多くあります。この前指摘した兵庫県知事の事もあります。百条委員会なるものが開かれ彼の多くのしたであろうとされるハラスメント行為が指摘されました。私たちが生きる上で何が正しい社会なのでしょうか?
本日の聖書箇所に入ります。「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』」
(マタイによる福音書15章1節から2節)
神の掟というのはモーセの十戒が基本ですが、それを解釈した掟や言い伝えが数多くありました。人々はそれらによってがんじがらめに支配されていたのです。そしてそれを行わなかったらこのように非難や批判される。私たちの社会もこのようになってきているのではないでしょうか?私は何も正当な差別やハラスメントに対しての指摘を批判しているのではありません。ですが、自分の都合の悪いものだけ差別やハラスメントとして、それらを言った人にレッテルを貼って攻撃するのは良くないのではないかと思うのです。
さてファリサイ派の人々と律法学者たちの非難に対して主イエスはなんとお答えになられたでしょうか?
「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」(マタイによる福音書15章3節)
主イエスはここでこう言っているのです。「あなたたちは神の掟を守っている、神に忠実な者だと思っているが、あなたたちは神に逆らっている反逆者たちなんだよ。」と言っているのです。彼らは自分たちこそ神に忠実な者だと思っていました。聖書的な知識が一般の人たちよりはありました。そして彼らが神の掟を彼らなりの解釈をしたのも、彼らが住んでいる環境、世の中では様々な場面があるのでその場面場面にあった解釈が必要だと考えました。しかしいつしか自分たちの解釈が言い伝えとなり、神の掟であると勘違いしてしまったのです。これが人々を縛り、自分たちをも縛っていることに気づきもしませんでした。主イエスはさらにこの事をより具体的に指摘します。
「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい」と彼らは言っていると主イエスはご指摘されました。父母を敬うよりも神を優先すべきという彼らなりの解釈で彼らはこのように言ったのであろうが、主イエスは彼らのこの言い伝えで神の言葉を無にしているとご指摘されました。
主イエスは彼らのこのすり替え、偽善を見抜き、イザヤ書を引用しました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」
(マタイによる福音書15章8節から9節)
重要なことは難しいことですが、神の御心を知り、神が私たちに何を望んでおられるかという神の掟を守ることです。一見すると正しそうな掟であってもそれが神の御心に反し、神の言葉を無にするようなものがあります。それを守ることによって私たちはむなしく神をあがめ、神に敵対しているのかもしれません。ですから、私たちの心を神に向けようではありませんか。
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