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「神の業を行う」

2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝

説教題:「神の業を行う」

聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 6章28-29節(175㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


「神の業を行う」と聞くと皆さんは何を想像するでしょうか? 主イエスや弟子たちが行ったような奇跡を想像しますか?

それとも主の御心にかなった行動を想像するでしょうか?              このことを理解するには本日の聖書箇所の前を見ないといけません。まず、ヨハネによる福音書6章1節から12節です。この箇所では主イエスが弟子たちに命じて、大麦のパン5つと魚2匹を5千人の人々に分け与えた様子が描かれています。驚くことに、この5千人の人々はこれで満足し、それだけでなく、残ったパンくずが十二の籠にいっぱいになったということでした。 まさに、奇跡でした。その翌日、満腹した人々が主イエスを探し求め、主イエスを見つけ出しました。しかし、主イエスは彼らに対してこのように仰られたのです。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 (ヨハネによる福音書6章26、27節) つまり、群衆は主イエスのしるし(奇跡)を見て、主イエスの御教を聞きたくて、主イエスの元に来たのではなかったのです。だからこそ主イエスは「朽ちる食べ物」(実際の食べ物)ではなく、「朽ちない食べ物」(御教)のために働きなさいと仰られたのです。もちろん、実際の食べ物は大事な物です。私達は生きていくためには食べ物は必要です。衣食住と言うぐらいですし、よく生きていくことを食べていくとも言いますしね。しかし、生きる目的、食べるだけが生きることではないのです。

 主イエスが荒野で四十日間、断食した時、悪魔が空腹な主イエスを誘惑に来ましたが、その誘惑の第一声はこうでした。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイによる福音書4章3節) 主イエスはこのようにお答えになられました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4章4節) 主イエスの元に来た群衆の心の状態とは「食べ物を食べる、食べない」という状態だったのだと考えます。つまり、まだ、信仰というのは程遠い心の状態ということです。しかし、ある意味、それは致し方ないのかもしれません。なぜなら、彼ら群衆はその当時のユダヤ社会ではあまり恵まれていなかった人々でした。王、貴族、律法学者、ラビと上流社会に属する人々ではなかったのです。ですから、御教に飢えているよりも、実際の食べ物に飢えていたのではないでしょうか?ですが主イエスは実際の食べ物よりも主イエスの御教に飢えてほしい、そして主イエスの元に来てほしいと願ったのだと思います。

 そして本日の聖書箇所になるわけです。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と群衆が主イエスに質問しました。(ヨハネによる福音書6章28節) 「食べ物を食べる、食べない」というレベルで行動していた彼らが「神の業を行う」という事を考えたのは彼らにとって大いなる飛躍です。しかし、彼らが考えていたことは「何かの行動をする」ということでした。つまり、「神の御心を行う」という事は「律法を守り、神のために、さらにそれ以外の行動をする。」という事でした。もしかすると、「そうすれば、何かいわゆる主イエスや弟子たちが行っていた奇跡を自分も行うことができるかもしれない」と考えたかもしれません。

 しかし、主イエスの答えは単純で拍子抜けしてしまうような物でした。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネによる福音書6章29節)

 つまり、私達は何か神様のために何かをする、パフォーマンスするという必要もないのです。まして、奇跡的なことを行うことを目的とする事もないのです。神がお遣わしになった者を信じればよいのです。なぜでしょうか?それはキリスト教が他力本願だからです。私達は神の恵みと憐れみによって救われたのです。父なる神が御子をこの世にお遣わしになり、その御子であるキリストが十字架に掛けられ、私達の罪の贖いをし、救われたのです。私達ができることは神を信じること、御子を信じること、そしてその事を信じることなのです。それが信仰であり、神の業なのです。

 もし自分で神のために何かを行う、もしくは何かを行なわなければ救われない、ましてや奇跡を行えるようになにか修行を行なわなければならないと考えるのであれば、それは自分を信じることに繋がります。それはクリスチャンの生き方ではありませんし、神の御心でもありません。ですが、神から遣わされた方を信じ、聖霊に突き動かされ、行動するのであれば、それは神の御心にかなったことであります。例えば、使徒言行録の伝道旅行で聖霊によって突き動かされ、または聖霊によって止められる場面が見受けられます。

 大切なことは自分が神様のために行動していると思い行動しても、それが神の御心にかなっていないことがあるのです。ですから、主イエスが仰られたように「神から遣わされた者を信じること」からすべてが始まります。ですが、この単純なことが難しいのです。わたしがこの教会に遣わされてから何度も話しておりますが、神に選ばれたイスラエルの民は何度も神から遣わされた人々を信じず、神に逆らい、他の神々に仕えてきました。モーセが生きていた時代も黄金の子牛事件は言うに及ばず、士師記に書かれているように、またユダ王国とイスラエル王国に分裂した後、神から遣わされた預言者たちを迫害し、神の御子主イエス・キリストを信じませんでした。もちろん、多くの民衆は主イエス・キリストを一時的に崇めましたが、ファリサイ派、律法学者たちは信じず、最終的に民衆は主イエスを見捨て、十字架に掛けたのです。主イエスが仰られた「神から遣わされた者を信じる」ことがいかに難しいことかおわかりでしょう。

 しかし、私はこの一見すると単純ですが、難しい「神から遣わされた者を信じる」事こそがキリスト教の信仰の真髄であると考えます。「何か神様のためにする」という考えは一見すると神さまの事を思っている、気にかけているという姿勢を示しているのですが、その実、自分が神と同等の力を持っているという考えを持つことなのです。それは罪に繋がるのです。創世記に描かれている楽園で蛇に誘惑され、アダムとエヴァは神に食べるのを禁じられた善悪を判断する実を食べてしまいました。蛇が誘惑した時に言った言葉は何だったのでしょうか?「……それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3章5節)

 金持ちの青年もまた自分の力で神の業を行う、救いを得ようとしましたが、結局、主イエスに「全財産を貧しい人に分け与え、従いなさい」と言われ、従いきれませんでした。 幼子のような信仰を持って、神から遣わされた人を信じることこそ神の業であり、救いに繋がるということを私達は忘れてはいけません。

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