「神の民」
2022年5月15日 復活節第5主日
説教題:「神の民」
聖書 : 新約聖書 Ⅰペトロの手紙 2章1-10節(429㌻)
旧約聖書 出エジプト記 19章1-6節(124㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
まず、Iペトロの手紙とはどういう物であったのかという事から話を始めたいと思います。読んで字のごとくこれは手紙です。手紙であるからには誰かから誰かへ送られた物です。
では誰から誰へと送られたかということが書かれた文がこのIペトロの手紙1章の1節から2節に書かれています。小見出しに挨拶と書かれている箇所です。「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」
ここでまず分かることはこの手紙の差出人が使徒ペトロであるということです。では受取人はというと、文字通りに言えば、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」という事になります。ですが、これでは少し分かりづらいので、説明いたしますと、これらの地方に住んでいるキリスト教徒たちだと言われています。まず、彼らはキリスト者たちであると私は言いましたが、その理由は1節の最後の箇所に「選ばれた人たち」とあり、さらに2節には「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」とあります。選民思想ではないのですが、キリスト者とは神に選ばれた者、この世と罪から神に贖(あがな)われた者です。
「御計画に基づいて」という言葉も使徒パウロが書き送ったローマの信徒への手紙8章28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」という言葉を思い起こさせます。さらに、「“霊”によって聖なるものとされ」という言葉に注目します。キリスト者は聖なるものであるけれども、それは出自とかそういう物によってではないと言っているのです。ヨハネによる福音書1章12節から13節にはこのように書かれています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
「“霊”によって聖なるものとされた人」は「神の霊によって聖なるものとされた人」、「聖霊によって聖なるものとされた人」、「神によって生まれた人」ということが出来ます。
さらに、「イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれた」という文言がくれば、これは確実にキリスト者もしくは教会に向けて書かれた手紙なんだなということが分かります。
さて、この地方に住んでいる人々はあまり良い状態にあるとは言えませんでした。なぜかというと、1節に書かれている「離散して仮住まいしている」という言葉から分かります。
「離散」というと「一家離散」なんて言うような使われ方もある程であまりいいイメージはありませんし、さらに「仮住まい」というのも何か腰が定まらないと申しますか、ふらふらしているイメージです。実際この当時彼らキリスト者たちはユダヤ人たちに迫害されていました。ですからエルサレムではなく、この地方に離散していたのです。ですから「仮住まい」というのも分かる気がします。ユダヤ人によるキリスト者への迫害については使徒言行録をお読みになると分かるかと思います。
先程私は「離散」「仮住まい」という言葉はあまりいい意味ではないと言いました。そして、これらの状態で生活しているキリスト者たちは一般的に言って不遇であると言えます。
しかし、逆説的に言って、キリスト者がそういう状態であるのはある意味神の御心に適うのではないかとも考えてしまうのです。皆さんは「離散」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
私はやはり旧約聖書のバビロン捕囚を思い浮かべます。確かにあの出来事はユダヤ人にとって悲惨な出来事でした。しかし、その出来事は神の御計画によってなされたものであり、神は彼らを御計画に従って彼らの故郷にお戻しになられました。つまり神は彼らを贖われたのです。仮住まいという言葉はどうでしょうか?私は先程フラフラしているイメージと言いました。付け加えると腰が定まらないイメージです。
根無し草という言葉を思い浮かべてしまいます。これらが世間一般の考え方ではないでしょうか。ですが、わたしたちキリスト者のこの世での生活は「仮住まいの生活」に喩(たと)えられるのです。
もう何度か説教でご紹介しましたが、ヘブライ人への手紙11章に旧約聖書時代を信仰に生きた「仮住まい」の人々が多く紹介されています。彼らの人生は、フラフラした、根無し草の様な人生ではありませんでした。さらに、パウロはフィリピの信徒への手紙3章20節でこう書いています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」パウロはこの地上でのキリスト者の生活を仮住まいと見なしていたからこそ、このように書いたのではないでしょうか?
大分長く説明しましたが、こういう背景を持って本日の聖書箇所に入っていきたいと思います。使徒ペトロはキリスト者たちに悪い物を捨て去り、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」とあります。主イエスは「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と仰られました。(マタイによる福音書18章3節)
ここではさらに進んで「生まれたばかりの乳飲み子」となっています。素直さが必要であり、さらに霊の乳を慕い求め、成長し、救われるようにペトロは彼らに求めています。霊の乳とは御言葉を読み、聖霊が働くよう求めることで得られると考えられます。そこに霊的成長があるのではないでしょうか?そしてその霊的成長が新たなる救いへとつながるのではないでしょうか?もちろん、私達はキリストを信じた時、救われています。しかし、ペトロはそれで満足していないのです。成長が必要だと言っているのです。その成長による救いこそが聖化と呼ばれるものではないでしょうか?
主イエスは普通の人々によって見捨てられました。しかし、主イエスは神によって選ばれたのです。そして彼らキリスト者は神によって選ばれたキリストを受け入れたのです。主イエスは生きた石であるように、彼らもまた生きた石であるように。霊的な家を立てあげ、聖なる祭司となって主イエスを通して霊的ないけにえをささげるようにとまでペトロはこのキリスト者たちに言いました。
一言で言えば「キリストに倣う」ということでしょう。キリストが生きた石であるようにキリストを信じる彼らもまた生きた石でなければならず、キリストが霊的な家を立てあげ、大祭司としての役目を果たしているのであれば、キリストに倣う彼らもそして私達もまた御言葉によって、聖霊によって霊的な家を立てあげ、この世において祭司として、奉仕者として生きなければいけないということです。
私はペトロがこの手紙を書いた相手は様々な地方に散らされ、迫害を受けているキリスト者たちであるとこの説教で言いましたが、このキリスト者たちは異邦人のキリスト者たちであると言われています。パウロは異邦人に伝道をするように、ペトロはユダヤ人に伝道するように動いたのですが、ペトロも最終的にはユダヤ人への伝道はあまり成功せず、結局異邦人の伝道へとシフトしていったようです。7節、8節で主イエスを信じない人々の事をペトロは述べていますが、ユダヤ人の人たちを想定していると思われます。
そして、9、10節です。ここでペトロは異邦人キリスト者たちを称揚しています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」
なぜ、ペトロはこのように異邦人のキリスト者たちを称揚したのでしょうか?それはやはり、彼らは地方に散らされ、迫害を受けていたからではないでしょうか?確かに地方に離散して、仮住まいをして迫害を受けるのはキリスト者として避けられないことであり、ある意味、神の御心の部分もあるかと思います。しかし、やはり現実問題は辛いのです。パウロもまたそれらを受け入れつつも辛さもあったと思うのです。このような挫けそうな、そして折れそうな心を支えるためにこのようにペトロは彼らを称揚しているのです。「あなたたちのアイデンティティはこうです。」ということを示しているのです。それがどれほど彼らにとって支えになった事でしょう。
このペトロが異邦人のキリスト者達に送った9節から10節に書かれた言葉は本日の第2の聖書箇所の出エジプト記19章1節から6節の中の6節や申命記7章6節、10章15節、4章20節などを元に語られたものです。これら元の箇所はいずれもイスラエルの民が神によって選ばれた民、宝の民であると述べています。これがイスラエルの民のアイデンティティであると言っても過言ではないでしょう。異邦人のキリスト者たちはある種の不安つまり自分たちが何者であるかというアイデンティティにイマイチ確信を持てなかったのかもしれません。しかし、ペトロは彼らを称揚し、アイデンティティを与えてくれた。気づかせてくれたのです。
私達もまた彼らと同様に神の民です。私達の周りには不安が数多くあります。今の最大の不安要素は新型コロナとウクライナの戦闘だと思います。ですが、私達は神の民なのです。ですから、必要以上に恐れず、心落ち着かせ、神と一緒に歩んでいこうではありませんか。
Comments