「神の民の選び」
- urawa-church
- 2023年11月19日
- 読了時間: 9分
2023年11月12日 降誕前第7主日
説教題:「神の民の選び」
聖書 : 創世記 12章1節-9節(15㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
人から何かの重要なポジションに選ばれるというものは基本的には嬉(うれ)しいものです。そのポジションが何か一般的に見て不名誉なものでなければということです。また、一般的に不名誉でなく、名誉なことであったとして厄介なもの、苦労が伴うものであったとすれば、これまた問題です。嬉(うれ)しさ半減といったところでしょうか。学校であれば、クラス委員、生徒会長、会社であれば係長、課長、部長、専務、社長、教会でいえば、役員でしょうか。
そういう役職に選ばれた場合、基本的には嬉(うれ)しいでしょうが、やはりその選ばれた人の能力、周りの状況によってその人の受け止め方が違ってきます。例えば、学校のクラスでクラス委員を選出しなければならないとします。クラスの生徒たちはそんな面倒くさいことはやりたくないと思っています。それで一人気の弱い生徒を見つけ、その人をクラス委員に選出したとします。
もちろんその人はクラス委員としての能力がないとします。
さて、選ばれたその人は嬉(うれ)しいでしょうか?
当然のことながらその人は選ばれた以上その役割をおこなうのですが、その能力がないのでミスを多くして、クラスメイト達に責められるかもしれません。彼もしくは彼女にとってそれは理不尽であると思われるかもしれません。一種のいじめに等しいからです。
もちろん、クラスメイト達にとってはクラス委員が十分働いていない、ミスをしているのだから責めるのは当然だと主張するでしょう。クラス委員も選挙で民主的に決めたのだから問題ないとするでしょう。ですがこれは本当に正しいでしょうか。
また同じように本人は能力がないにも関わらず、自分からそのポジションを求め、それを得るのですが、全く仕事をする能力がないケースもあります。今の政治家の方々を見ると、それがあてはまるのではないかと思います。今の経済状況は悪いです。
物価は高いです。給料は低いです。税金、社会保障もまた高いままです。このような状況の中で国会議員の給料を上げるという法律を決めるようです。そして国民から批判が出ると、上げた分の給料を国庫に返すということですが、それなら最初から上げなければいいのではないかと思ってしまいます。
さらに、財務副大臣の方が過去に4回税金を滞納し、彼が代表をつとめる会社の土地と建物が差し押さえを受けていたということです。彼は国会議員であり、税理士でもあります。ですが、大臣を辞任はしないそうです。まあこれは副大臣としての能力がないというよりも、それ以前の話であるのですが。
このように人の選びというものが必ずしも本人の希望もしくはそれに影響する人々の希望、利益に合わないということがよくあるということです。いわゆるミスマッチということです。
では神の選びではどうでしょうか?皆さんにとって身近な例は何でしょうか?一つは牧師ではないでしょうか?牧師は神からの召命によって牧師として立ちます。召命とは神の恵みによって神に呼び出されることです。牧師の召命の場合は伝道者として使命を与えられることです。もちろん、牧師の中には途中で辞めてしまったり、教会員の方々にとって受け入れがたい牧師が派遣されてしまい、それが対立へと発展してしまうこともあるでしょう。いわゆるミスマッチですね。またもう一つの例としては私達自身です。
つまり、私達は洗礼を受けました。それは主イエスを救い主として受け入れるという神からの召命を受け入れたということです。
それが神の選びであります。もちろん、私達クリスチャンの中には洗礼を受けても、教会に来るのを諦めて、普通の生活をしている人たちもいます。やはり、これもミスマッチです。
さて、本日の聖書箇所です。創世記12章1節です。神のアブラム(後にアブラハムと改名するのですが)の召命の話です。先程申し上げたように、召命とは神が恵みによって呼び出すことです。ですから神がアブラムを恵みによって呼び出したということです。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
(創世記12章1節から3節)
まず始めに「生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」(1節)とあります。
この生まれ故郷 父の家とはどこかということですが、カルデアのウルとハランであろうと思われます。つまりアブラハムの召命は2回あったのではないかということです。まず最初の召命がウルであったという理由ですが、それは前章11章27節から28節に書かれています。「テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」
そして11章31節から32節にはこう書かれています。「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。」
創世記12章5節から7節にかけて読んでいくと、主がアブラムを導きいれようとする土地はカナン地方であるということがわかります。そしてアブラムの父であるテラが彼らの子どもたちを連れて行こうとしていた最終目的地はカナン地方であるということは11章31節から32節に書かれています。しかし、テラとその家族は最終目的地にはいかず、途中のハランで留まったということです。
それで主は再度アブラムにハランから離れて主が指し示す土地に行きなさいと命じたと思われます。少し飛びますが、創世記12章4節から5節にはこのように書かれています。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。」
ですから時系列的に見て、ハランで再度主がアブラムの前に現れて、主の指し示す地、カナン地方へ行きなさいと命じたと見るのが妥当であると考えられます。
さらに言うならば、新約聖書の使徒言行録7章2節から4節にかけてこのように書かれています。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、」
随分長々とお話してきましたが、ここで重要なことはアブラムをメソポタミアのカルデアのウルから、そしてハランからカナン地方に連れ出したということが重要です。
ではなぜ、そのようなことを主はお命じになったのでしょうか?
一説には、カルデアのウル、そしてハランが偶像礼拝の地であったからそこから彼を連れ出したかったというのが主の意図するところであっただろうという考えもあります。ですが主がアブラムを導き入れた土地もまた偶像礼拝の地であったということです。
ですからこれはあまり根拠がないのではと思われます。
これは主からの一つの試しであると同時に新しい始まりを意味していると思います。試しというのはアブラムが主の命じることに従うかどうかということですね。このハランの土地に住んでいたアブラムはある程度の財産はあったと思われます。それは創世記12章5節の「蓄えた財産をすべて携え」という表現がそれを暗示しています。つまりある程度財産があり、生活基盤もあるアブラムがハランを捨ててよくわからないカナン地方に行くかどうかということです。アブラムの信仰を試しているのです。
更に言うならば、新しい始まりです。アブラム(アブラハム)、イサク、ヤコブ(イスラエル)はイスラエル人という神に選ばれた民の父祖と呼ばれる人々です。集団としてはモーセに率いられてからということになりますが、アブラムから神に選ばれた民の歴史が始まったのです。人々はよく自分の人生を転換するといった新たなことをするのに、何か新しいことをすることがあります。
服を新調する。引っ越しをする。仕事を変える。といったことです。もちろん、主が人のようにこれらの事をするというわけではありませんが、これまでのアブラムの人生、つまり、カルデアのウルでの人生、ハランでの人生とは全く違う新しい人生をアブラムは歩むことになるのです。そういう意味で場所を変えるというのは必要なことだと私は思うのです。
随分とこのアブラムが父祖の土地を離れることについてのお話をしてきました。ですが、創世記12章2節から3節にかけても重要です。一言で言えばアブラムとアブラムの子孫を祝福し、その祝福は全世界の人々に及ぶということです。呪いという言葉もあるのですが、アブラムを呪う者を主は呪うと言っているのであって、全体的にマイナスのイメージがないんです。例えば律法を読んでみますと、祝福もありますが、禁止事項、それを破った時の罰もあります。祝福と呪いです。そういう意味でこの2節から3節にかけての主の言葉は祝福の契約です。それは創世記9章で主がこの地上を方舟に乗ったノアと彼の家族、そして地上の動物たち以外すべて滅ぼした後に結んだ祝福の契約と同じです。
アブラムは主の言葉通りにハランを出発し、主が言われたカナン地方に入った。7節、8節では主の祭壇を築きました。これは礼拝です。
この聖書箇所で最も大切なことはやはりアブラムの信仰です。もっというならば信仰に基づく主とのコミュニケーションです。
主の召命に対してアブラムは応答しました。行き先もわからない場所に行けと言う命令に応え、現状満足している生活を捨てて旅立ったのです。これこそ信仰です。そして自分に与えるではなく、自分の子孫に土地を与えるという自分が見ることが叶わない約束を信じて祭壇を建てたのです。そして主の御名を呼んだのです。7節、8節です。信仰によるコミュニケーションです。一方通行ではないのです。これが神の選びにつながるのです。
後のアブラムの子孫たちはこの信仰に基づく主とのコミュニケーションを忘れてしまったのです。彼らはこれらなしでも主は自分たちを祝福してくれると勘違いしてしまったのです。私達は選ばれた民である、他の民族は汚れていて、救われないと考えてしまった。
しかし創世記12章3節に「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」と書かれているにもかかわらずです。
神の民の選びとは信仰であると私は確信します。
そして今、「アブラムによって祝福に入る。」という言葉は主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを受け入れる信仰によって救いと祝福に入る」という言葉になりました。
Comments