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「神の民の選び」

2024年11月10日 降誕前第7主日

説教題:「神の民の選び」

聖書 : 創世記 13章8-11節(16㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 先週は召天者記念礼拝でした。浦和教会の信仰の先輩たちをおぼえつつ、さらにはこの教会を超えて信仰の先達たちをおぼえ、主を礼拝することができて感謝しております。また普段お会いできない方々に礼拝に来ていただき、また礼拝後の茶話会にも参加していただきました。素晴らしいことだと思います。

 さて本日の聖書箇所はアブラハムとロトとの別れの場面です。先程は召天者記念礼拝で普段めったに会えない人々に会うことが出来た、いわゆる再会のうれしい話をしたのに今度は逆に別れのお話かとがっかりされる方もいらっしゃるかと思いますが、人の人生とは出会い、一緒に時間を過ごし人間関係を築く、別れ、そして再会の繰り返しではないかと思うのです。そういう意味でこの話も人生の一端を紡ぐ大切なものだと私は考えます。


 主の召命によってアブラハムは故郷から出発したということは皆さんもご存知だと思います。このように言うとアブラハムだけ故郷を出発したかのように考えてしまいますが、そうではありません。本日の聖書箇所創世記13章の前の12章の4節から5節に書かれています。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。」

 つまりアブラハムは妻のサライ、甥のロト、そして何人かの人々と共にハランを出発し、カナン地方に入ったということです。一人ではなかったということです。ですが、やはり見知らぬ土地に行くという決断をするというのは相当覚悟がいることです。それはアブラハムの主の召命に従うという信仰の賜物であるということです。

 さて本日は故郷を一緒に出てきたアブラハムとロトとの別れの場面です。アブラハムとロトは両方とも家畜を飼って生計を立てていました。そして両名ともその家人が多くいて当然所有する家畜も多かったわけです。ですから同じ場所には家畜も含めて両家族を養う飼料、水などはなかったわけです。ですからアブラハムは別れることを甥のロトに提案したわけです。これはごく自然なことで二人の間に何かひどい深刻な憎悪があったわけではありません。もちろんお互いの家畜を飼うもの同士の争いはありましたが。      

こうしてアブラハムとロトは別れました。

 もちろんこの別れは必然でありましたが、この後ロトは不幸に見舞われていきます。彼がまず選んだのがヨルダン川流域の低地一帯でした。なぜならそこは「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。」からです。そして彼は東へ移っていった。アブラハムはそことは逆に行ったわけです。

 本日の聖書箇所は11節ですが、さらに読み進めると12節から13節には「アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」

 ここから見えてくることがあります。ロトは目先の見目麗しさによってヨルダン川流域の低地一帯を住む場所として選びさらに悪名高きソドムに住むまでにいたったわけです。もちろん、私達もやはり見た目にこだわることはあります。もし住むとしたら汚い場所よりもきれいな場所に住みたいのではないでしょうか?ですからロトがヨルダン川流域の低地一帯に住む、低地の町々に住むことは当然といえば当然です。そして町々には人が暮らしているからそれらの人々と交流するというのは人間として当たり前であります。ですが、彼はあの悪名高きソドムにまで足を伸ばし住み始めました。

 人は自分の選択について責任を取らなければなりません。私も自分の人生を振り返ってみて、あの時こうしていればよかったのにということがいくつもあります。高校の時もっと勉強していれば普通に日本の大学に入れていたのにとか、大学時代に日本に帰ってきた時、就職活動をもっとしていればどこかの会社に就職できたのにというようなことです。だからこそ私は高い代償を払わなければなりませんでした。

 ロトの場合もそうでした。結局ソドムに住むことによって主がソドムを滅ぼされる時に、その難を逃れるために主の使いの助けによって妻と二人の娘たちとそこを逃げ出さなければならなかったのです。妻は振り返ってはならないという御使いの忠告を破ったために塩の柱になってしまいました。つまりロトのこのヨルダン川の低地に住む、ソドムに住むという選択によってこのような事態になってしまい、その結果をロトは受け入れなければならなかったのです。

 なぜそのような選択をロトはしたのでしょうか?ソドムの住民の悪名は轟いていたに違いありません。なのになぜそのような町に住もうとしたんでしょうか?それはやはり彼はアブラハムほど主との関係を持っていなかったからなのでしょう。なぜなら主とアブラハムとの会話は多く出てくるのに、主とロトの会話はあまり出てこないからです。

 しかし彼はソドムに住みつつ他の住民と同じではありませんでした。主がソドムを破壊する前に御使いをそこに派遣したことがありました。ロトは彼らを見るなり自分の家に強いて迎え入れました。彼は彼らが主の御使いであるということがわかっていたのだと思います。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」(創世記19章2節)これはロトが言った言葉ですが、この中の「僕」という言葉に注目してください。ロトは自分が僕であると言っているのです。このことからも彼らが主から遣わされた人たちであることをロトがわかっているということではないでしょうか?

 そして何よりも彼らを迎え入れるということは彼の信仰を表しています。しかし、ソドムの住民たちは彼らの悪名どおりにロトの家に押しかけ主の御使いたちをなぶりものにしようとしました。それに対してロトは彼らを守るために嫁にいかせていない2人の自分の娘達を差し出すから彼らに手を出さないでくださいと頼みました。もちろん、現代の倫理規定でいえばいかがなものかと言われるかもしれませんが、ロトがそれほどまでに主の御使いを守ろうとしたということは否定できません。これもまたロトの信仰の現れではないでしょうか?だからこそ御使いたちはロトとその家族をこの場所から連れ出し、守ろうとしたのでしょう。

 しかしソドム滅亡後、ロトとその二人の娘たちは山の中に住みました。そしてそこは男の人はいないとのことでしたので、娘たちは父親を酔わせて子どもをもうけました。姉は男の子を産みモアブと名付けました。これがモアブ人の先祖である。そして妹も男の子を産みベン・アミと名付けました。今日のアンモン人の先祖である。このような行為は主の忌み嫌うことでした。もちろん律法はこのずっと後に出来るのですが、やはりこのような行為は禁じています。このようにロトとその一家は主から遠ざかっていったのです。さらにモアブ人、アンモン人はイスラエル人が出エジプトでエジプトから脱出してから度々ひどく敵対してきました。つまり神に選ばれた神の民に対して逆らってきたというわけです。それは神に、主に敵対するということです。

 主はアブラハムを故郷からカナンの地に導きました。アブラハムの故郷には多くの偶像があったと聞きました。つまり偶像礼拝の地からアブラハムを導き出し、彼の子孫たちを主の民、神の民にするためでした。そうであるならば一緒に導き出したロトもまた偶像礼拝から遠ざかり、主を神とする機会が与えられていたのかもしれません。ですが、彼の信仰心はやがて弱っていき、不条理な行為によって最後はイスラエルの民と敵対するモアブ人とアンモン人の先祖を生み出してしまいました。主から離れてしまったのです。主に敵対する一族になってしまいました。

 ですから私達も気をつけなければなりません。私達は本当に信仰によって歩んでいるかをチエックしなければなりません。主の民、神の民として歩んでいるか、知らず知らずにロトのようにまたその家族のようになっていないかを精査しなければなりません。

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