「神の知恵」
2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝
説教題:「神の知恵」
聖書 : 旧約聖書 箴言 1章20-33節(991㌻)
新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章30-31節(300㌻)
新約聖書 ヤコブの手紙 3章17節(424㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達が生活していく上で知識は大切ですが、知恵はそれ以上に大切です。知識は今の時代、インターネットを使って簡単に手に入れることが出来ますが、知恵はそう簡単に身に着けられるものではないからです。私達はこの知識と情報が溢れている中で何が正しくて、何が正しくないのかを判断しなければなりません。それには知恵が必要なのです。私達は未だに新型コロナウィルスの脅威に晒されています。そして、ワイドショーでは、専門家、コメンテーター、アナウンサーがそれぞれの意見を述べていますが、彼らの意見もまた知識、情報に過ぎないのです。私達は彼らの意見が正しいか、間違っているかを判断し、正しい意見を取り入れなければなりません。そのためには正しいものさし、つまり正しい知恵が必要です。そういう意味で今ほど、この正しい知恵が必要とされています。
聖書で知恵はどのように語られているでしょうか?本日の聖書箇所の一つである箴言はヨブ記、コヘレトの言葉、詩編の一部と同様に知恵文学と呼ばれ、格言、ことわざ、金言などによって構成されています。いわば、知恵の大切さが語られている書です。「知恵は巷(ちまた)に呼ばわり広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ城門の脇の通路で語りかける。」と20〜21節にある。現実的に知恵が語るわけがないので、これは比喩だと考えます。何の比喩かと言うと、おそらく神が語りかける知恵ある言葉を人は聞こうと思えばいつでも聞くことが出来るという事ではないかと考えます。「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮(あなど)る」と7節に書かれているからです。
では、神が語りかける知恵ある言葉とはどういうものでしょうか?浅はかさ、不遜さ、愚かさを捨てて主に立ち返り、神の懲らしめを受け入れれば、神は彼らを赦し、彼らには平安が与えられるが、もし、神が差し出した手を拒み、神の忠告を無視し、懲らしめを受け入れないと言うならば、恐怖、苦難と苦痛が彼らを襲い、その時、神は彼らを助けないと言われる。これは神に従えば、平安を得るが、神を捨て、神に逆らえば、罰を受けるというイスラエルの民に与えられた律法にも書かれた大原則です。しかし、イスラエルの民は何度も神を捨て、神に逆らい、神から罰を受けてきました。それはモーセが生きていた時代もそうだったのですが、士師記の時代も、さらに言えば、ソロモン王が亡くなり、国がユダ王国とイスラエル王国に分裂してからも双方の国は神を捨て、神に逆らった。そして、それぞれの国は滅ぼされました。まさしく、24〜32節に語られた事が実際に国レベルで起こったのです。33節に「わたしに聞き従う人は確かな住まいを得、災難を恐れることなく平穏に暮らす。」とあるように、ここでは主に逆らう人とは反対の人の事が書かれている。もちろん、神に従ったからと言って、世の中を順風満帆に生活していけるというわけではないという事を私達は知っています。神は私達を訓練するためにあえて苦難を私達に与えることもあるかと思います。ヨブの人生を忘れてはいけません。しかし、神は私達に耐えられない苦難は与えませんし、なにより、神に逆らい続ければ、やがて私達の人生が破滅に至ります。
また、ここでの知恵とは神の知恵なのです。人間の知恵ではないのです。それを得るためには、神に立ち返り、懲らしめを受ける必要があると神は言っているのです。どうしたら、私達は神に立ち返ることが可能なのでしょうか。まず、私達は砕かれなければならないのです。自分を捨てなければならないのです。自分のプライドを捨て、へりくだらなければならないのです。その時こそ私達が神に立ち返るチャンスなのです。皆さんは放蕩息子が彼の父親の財産を使い切り、ひどい生活をしていたが、悔い改め、父のもとに戻り、父から赦された話をご存知かと思います。そしてダビデ王が部下の妻バテシバを手に入れるため、彼の部下を激しい戦場に送り、戦死させたという罪を犯したのですが、預言者ナタンにその事を指摘され、直ちに悔い改めた話もそうです。ダビデ王の悔い改めの詩が詩編51章に書かれていますが、その中の1節を読ませていただきます。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(19節)私達はへりくだり、素直になり、この御言葉に耳を傾け、神に従うよう神に求められているのです。
神の知恵とはなんでしょうか?これまではへりくだり、御言葉に耳を傾け、神に従うことであると言いましたが、具体的にはキリスト・イエスの事です。本日の第2の聖書箇所Iコリントの信徒への手紙1章30節でパウロは次のように言っています。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」
ここではっきりとパウロはキリスト・イエスが私達キリスト・イエスに結ばれた者たち、キリスト者たちにとって神の知恵であると宣言しています。世には様々な知恵があります。しかし、それらの知恵は神の知恵に比べたら取るに足りない物であるとパウロはこの節の前で議論しました。例えば19節にある「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という言葉を彼は引用しました。ここで述べられている知恵や賢さとはこの世の知恵だと考えます。さらに、彼は続けます。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」(20〜21節)
いかにこの世の知恵というものが神の知恵とは比べ物にならないぐらい愚かなものであるかということをパウロは説明しているのです。
パウロはさらに具体的な例として、ユダヤ人とギリシア人を登場させます。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(22-24節)
「ユダヤ人はしるしを求め、」とありますが、しるしとは奇跡のことです。つまり、ユダヤ人は神の臨在を確認するために奇跡を求めたということです。確かに神は出エジプトでユダヤ人に海の乾いた地を渡らせるなど数多くの奇跡を示してきました。だからこそ、ユダヤ人がしるしによって神の臨在を確認しようとしたとしても、無理からぬ事かもしれません。しかし、しるしによって神を知ることは神の御心ではありませんし、神を理解することはできません。これは神の知恵ではないのです。
この「ユダヤ人はしるしを求め、」という言葉で思い出した聖書箇所があります。マタイによる福音書12章38〜47節です。ここで律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに「しるし」を求めました。しかし、主イエスはこれに応じず、彼らに次の様に言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(39~40節)主イエスはこれからご自身に起こる復活の奇跡を預言者ヨナに起こった奇跡と絡めて話されました。しかし重要な事は主イエスがしるしを求めた律法学者やファリサイ派の人々を「よこしまで神に背いた時代の者たち」と呼び、非難したことです。さらに、主イエスは裁きの日に、ニネベの人々と南の女王が今の時代の人々(主イエスが地上で生きていた時代の人々)と共に「しるし」を求めた律法学者やファリサイ派の人々を裁くとまで言われました。主イエスはこの「しるし」を求める行為を悪であり、罪であり、断罪されるべきことだと考えていたと思われます。つまり、この「しるし」を求める行為はただ単に神を知ることができない、神の知恵ではないというだけで収まりきらなかったのです。
しかし、主イエスは地上での宣教時代に人々の求めに応じ、病人をいやしたり、悪霊を追い出したりという奇跡を何度か行っています。なぜ、今回、主イエスはこのような態度を取ったのか?それは今回も含めて奇跡を求めた人々の動機が悪い動機、つまり奇跡が行えるかどうかあなたが神から来たかどうか判断しようじゃないかという考えに基づいていて、それは父なる神の御心にそぐわなかったからだと考えます。この様な例がもう一つあります。それは荒野で悪魔に誘惑された時です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という悪魔からの誘惑に対して主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と申命記の言葉を引用し、この悪魔の誘惑を退けました。主イエスは自分が神の御子であることを神の力で証明してみなさいというこの悪魔の動機が神の御心にそぐわないと考えたので奇跡を行わず、かえって御言葉によってこの悪魔の誘惑を退けました。この様にしるしを求めるユダヤ人の行為は神の知恵、神の御心とは全くかけ離れており、罪でもあったのです。
では、「ギリシア人は知恵を探しますが、」とはどういう意味でしょうか?ギリシアは知恵(ソフィア)を愛しました。哲学が盛んになり、多くの哲学者、例えば、皆さんもご存じのソクラテス、プラトン、アリストテレスなどを多く輩出したのもこの知恵を愛するギリシア人の性質のせいです。しかし、彼らはイエス・キリストという本当の知恵、神の知恵には関心はありませんでした。彼らが愛したのはこの世の知恵であり、この知恵で世界と神を知ろうとしましたが、それは叶いませんでした。パウロは彼らのこのような気質を知ることが出来たのは、彼がギリシアの首都、アテネに滞在していた時期があるからだと思われます。使徒言行録17章16〜34節に書かれています。
このようにユダヤ人のように奇跡を求めることやギリシア人のようにこの世の知恵を求めることで神の知恵を得ることはできません。彼らは方向を間違っているのです。ユダヤ人にとってはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである主イエス・キリストこそ神の知恵です。そして、私達はキリストに結ばれているという特権が与えられているので、神の知恵である主イエスを学ぶことが出来るのです。さらに、主イエスを通して父なる神に大胆に近づくことが出来るのです。神の知恵の特徴はへりくだりです。知恵を得たからと言って、自分を誇るのであれば、神の知恵ではなく、この世の知恵なのです。Iコリントの信徒への手紙1章31節にこう書かれています。「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」
今、私達が書店などで見かける書籍は経済本や自己啓発本が多い気がします。それらの本の目的はいかに自分が経済的に、またそれ以外で高めることが出来るかという事です。確かに向上心というものは必要ですし、それがなければ、努力をしなくなります。ですので、向上心を育てることは必要です。しかし、この向上心が時としては他人への見下しに繋がる可能性を否定できません。私はこれだけ、経済的に豊かであり、これだけ人より優れているという心が他者への蔑み、見下しに繋がります。この前も話しましたが、ある有名な方がソーシャルメディアでホームレスの人たちに対しての差別発言を行いましたが、彼はYouTubeで多くのフォロワーがおり、驚くほど多いと聞いております。この様な彼の状況が彼にあのような発言をさせたのだと考えます。
ファリサイ派の人と取税人の祈りの話はご存知でしょうか?ルカによる福音書18章9節〜14節です。ファリサイ派の人と徴税人の人が神殿で祈りをしたが、ファリサイ派の人はこの様に祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(11~12節)
「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(13節)
主イエスは義とされたのはこの徴税人だったと言われました。
ファリサイ派の人にこのように言わせたのは何でしょうか?彼のファリサイ派に所属しているという自尊心です。私は神に近い存在であるという考えです。それが他者への蔑み、見下しに繋がっています。本来の祈りとは神聖なものなのです。ですが、このファリサイ派の人はその神聖な祈りの場で他者を蔑んでいるという罪を犯しているにも関わらず、その自覚がありません。私達はこの事に注意を払わなければなりません。ですから、むしろ参考とすべきはこの徴税人の祈りの態度です。彼はへりくだり、罪を犯した自覚を持ちつつ、悔い改めています。彼こそ神の知恵を受けるにふさわしいのではないかと考えます。
ヤコブの手紙3章17節にはこう書かれています。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。(中略)偏見はなく、偽善的でもありません。」
ヤコブが語った上から出た知恵の特徴こそ神の知恵である主イエス・キリストを表すのに適しています。その知恵にはへりくだりがあります。自分を誇るのでなく、主を誇るのです。逆に上から出た知恵ではなく、地上の知恵としてヤコブが挙げているのは、ねたみ深い事、利己的な事、自慢する事、真理に逆らってうそをつく事などです。ヤコブはこれらを上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものとして非難しています。
私達の周りにはこの様なこの世の知恵で溢れています。私達は物事を判断し、生活をしていく上で何を頼りにしていけば良いでしょうか?どのような知恵を持つべきでしょうか?ユダヤ人が追い求めた奇跡でしょうか?ギリシャ人が追い求めた知識でしょうか?それとも、巷に溢れる、経済本や自己啓発本に書かれている様なこの世の知恵でしょうか?キリストに結ばれた私達は本当の知恵、神の知恵であるキリスト・イエスを選ぶべきではないでしょうか?
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