「神の霊による啓示」
2024年8月11日 聖霊降臨節第13主日
説教題:「神の霊による啓示」
聖書 : Ⅰコリントの信徒への手紙 2章6節-16節(301㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達は成長を期待するものです。例えば先生は生徒たちが学習において成長するのを期待します。先生は昨日教えたことを生徒たちが理解しているのを確認出来た時には嬉しいものです。なぜならその先生は彼らが成長していることを確認できるからです。また親は自分の子どもに何を期待するでしょう。漠然としていますが、例えば自分の子どもがまだ赤ちゃんだとして何を期待するでしょう。意味がわからないけれども何か言葉を言う事、それから意味がある言葉を言う事、ハイハイから立って歩くことなどですね。体が大きくなることなんかもあります。つまり成長することです。
パウロはコリントの教会を立ち上げた人、創設者でした。人間的に言えばコリントの教会、教会員たちの親であり、先生でした。私が人間的に言えばと言ったのにはわけがあります。
本日の聖書箇所より後にこのように書かれているからです。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
(Iコリントの信徒への手紙3章5節から6節)
そしてパウロの伝道は神に、聖霊に導かれていると私は考えておりますので「人間的に言えば」という言葉を使いました。
さてパウロはコリントの教会を去った後、コリントの教会の創設者として教会の成長を期待していました。それは単に教会員の数が増えるというものではなく(確かにそれも期待していたかもしれませんが)教会員の霊的な成長、成熟でありました。さて実際はどうかと言いますと、散々な状態でした。どういうことかと言いますと、教会が分裂していたということです。それは本日の聖書箇所の前の1章10節から17節に書かれています。
「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」(1章12節)
どうしてこのような事になったかというと、パウロがコリントの教会を建てたのですが、パウロが教会を去った後にアポロが教会に来て奉仕をしたのです。アポロはアレクサンドリア生まれの聖書の知識も豊富で聖霊に満たされた雄弁な人物であったということです。その洗練された雄弁な語り口調に魅了された人々が彼を信奉しだしたということです。ケファとはだれでしょうか?ペトロです。ペトロがコリントの教会で奉仕をしたという記録はないのですが、ペトロは有名な使徒であるということでペトロを信奉した人々がいたということです。キリストを信奉する人々のことですが、言葉だけを見ると正しいように見えます。なぜなら、パウロ、アポロ、ケファという人間を信奉したのではなく、キリストを信奉したのですから。ですが、彼らは本当の意味でキリストを信仰したのではなく、自らを霊的エリートだとみなし、教会の分裂に関わっていたということです。自らを霊的エリートだとみなし、人を見下げるような人々が本当にキリストを信仰しているわけがないのです。断っておくのですが、アポロ自身が分裂に関わっていたということはなく、ケファ自身が分裂に関わっていたというわけではありません。またパウロを信奉する人々が分裂に関与していることに対してパウロは困惑し、呆れていたということです。それはパウロのこの発言に表されています。
「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。」(1章14節から16節)
このパウロの発言はパウロを信奉し分裂を引き起こしているパウロ派に対する牽制になっていると考えられます。
結局のところ彼らは自身では成長している、つまり聖書を勉強し、知識もそれぞれの信奉するリーダーの元で増えていて、成熟していると思っていたようですが、パウロに言わせると成長も成熟もしていなかったということです。そして結果として分裂が引き起こされたということは彼ら自身は気がついていなかったかもしれませんが、悪魔による見えざる力が働いていたのではないでしょうか?
本日の聖書箇所に入っていきます。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。」
(Iコリントの信徒への手紙2章6節)
パウロがここで言っている成熟した人たちの間で語られる知恵とは何でしょうか?聖霊に導かれた知恵です。分裂したそれぞれの派閥に属している人々は確かに彼らなりの知識、知恵というものを身につけたかもしれません。彼らがコリントの教会に導かれる前に比べれば知識、知恵は増しているかもしれません。しかし彼らはそれらを党派心を持って使っていました。何が彼らをそのように駆り立てたのか?それは私達は彼らより上、彼らは私達より下という感情です。高ぶっていたのです。それが罪なのです。
だからこそ聖霊による知恵が必要なのです。そして「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
(Iコリントの信徒への手紙2章8節)
と書かれています。ファリサイ派、サドカイ派、律法学者、ヘロデ、ピラトといったこの世の支配者たちはこの神の知恵を理解しなかった。理解出来なかった。なぜなら、彼らは自分たちを誇りとしていたからです。だからこそ主イエスを十字架に掛けたのです。ですが、主はこの十字架で私達の罪を贖い、そればかりでなくご復活されたのです。
私達はこの世の支配者のようになってはいけないのです。また私が先程語ったコリントの教会で分裂に加担した人々のような党派心に基づいた、私は彼らより上である、聖書的知識があるといった知恵を求めてもいけないのです。
私達は「世の霊ではなく、神からの霊」を受けたのです。
そしてそれは神からの恵みなのです。それは人に教えられた言葉によるものではないのです。もちろんだからといって私達は聖書の学び、礼拝、祈祷会などを疎かにしていいということではありません。Iコリントの信徒への手紙14章14節から15節で、霊で祈る異言が必要であると同時に理性でも祈り、賛美することを推奨しています。またもし聖書の学びが不必要であるということがあるならば、私がこれまで神学校で学んできたこと、そして現在学んでいることは意味がないということになってしまいます。
そうではなく、繰り返しになってしまいますが、コリントの分裂に関与したような相手を見下し、従わせるように導くような知恵は神からの知恵ではないということです。もしそのような思いにとらわれているようであれば、そのような知恵は捨てた方が良いということです。ヤコブの手紙でヤコブもまた知恵を語っています。ヤコブ書3章13節から17節に書かれています。彼は聖霊に導かれた知恵を上からの知恵と言っています。「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」
まさにパウロが語っていたことではないでしょうか。私達はヤコブが言うところの上からの知恵、聖霊による知恵を身につけたいと思います。そのためには私達自身がへりくだらなければなりません。神の前に頭をたれて聖霊にお願いするのです。そしてもし、それと真逆の思いに囚われてしまったら、それを排除していただけるよう祈るのです。そうすることで私達は聖霊による知恵を身につけ、神の御心を知り、そのように行動することが出来るようになると私は確信しています。
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