「神殿でのペトロの説教」
2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日
説教題:「神殿でのペトロの説教」
聖書 : 使徒言行録 3章11節-26節(218㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
聖霊降臨によって主イエスの弟子達は力を得ました。その力は弟子達によって口にされた異言という奇跡でした。神の御業です。その後ペトロが聖霊の力によって大胆に説教をいたしました。その説教については本日の聖書箇所の前、使徒言行録2章14節から36節に書かれています。
ですから本日の聖書箇所に出てくるペトロの説教は2度目ということになります。どうしてペトロがこの説教をすることになったかというと、ペトロとヨハネが神殿を歩いていた時、生まれながらに足の不自由な男が神殿に運ばれてきました。彼は彼らに何かを恵んでもらおうとしたのですが、ペトロは彼にそれ以上のものを与えました。それは彼が歩けるようになることです。奇跡です。そのことに対して驚いて人々が彼らの元に集まってきて、ペトロが説教をすることになったのです。この事は本日の聖書箇所の前、使徒言行録3章1節から10節に書かれています。
ここで注目することがいくつかあります。聖霊が降臨して、その力によって弟子達が異言を話すという奇跡が起こりました。そしてペトロが聖霊の力によって第1の説教を行いました。また聖霊の力によって、そして主イエスの御名によって足の不自由な人を癒やすという奇跡をペトロは行いました。そしてペトロは第2の説教を行ったということです。つまり規則性があるということです。奇跡、御業というものはインパクトがあります。主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時にも度々御業をなさいました。しかし、御業だけでは伝道はなりません。そこに御教えがなければいけないのです。だからこそ主イエスは素晴らしい御言葉、説教をなさったのです。それはこのペトロにも引き継がれています。そしてそれは聖霊の力のなせることなのです。
主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時、弟子達に言われました。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
(ヨハネによる福音書14章12節)
これは見事に聖霊降臨後ペトロ達が行った業の事を指しています。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
(ヨハネによる福音書14章26節)
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」
(ヨハネによる福音書16章8節から11節)
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
(ヨハネによる福音書16章13節)
これはペトロの説教が聖霊の力によってされたものであることを証明しています。
聖霊降臨前のペトロの状態はどうだったでしょうか?もちろん復活された主イエスがペトロを含む弟子達にお会いされました。その事で彼らは慰めを得ていたと考えられます。ですが、彼らにはやはりユダヤ人に対する恐怖、つまり自分たちが捕らえられ、殺されるのではないかという恐怖があったに違いありません。
ですが聖霊降臨後のペトロはどうだったでしょうか?異言を話し、あれだけ立派な説教をしました。それによって三千人ほどが悔い改め、洗礼を受けました。すごいことです。聖霊の力なしには出来ないことです。
そして今回の第2の説教へと続いていくのです。その内容を見てみましょう。ペトロはこの奇跡に驚いている人々に対して質問をします。「なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(12節)
ここでペトロは何を言いたいのでしょうか?
まず最初の質問についてですが、ペトロはこう言っているのです。この事は驚くに値しない。つまりこの奇跡は主イエスの御名によってなされたことであり、聖霊の力によってなされたことです。
主イエスの御名によれば何事も可能であるということです。第2の質問はこの奇跡は私達(ペトロとヨハネ)の功績ではないということです。つまりこの奇跡は主イエスによって、聖霊によってなされたのだということです。
少し脱線してしまうのですが、パウロとバルナバが宣教をしていたリストラでパウロが生まれつき足の不自由な男を癒やしたことがありました。見ていた周りの人々は、彼らを神々と褒め称え、さらにはゼウス神殿の祭司が彼らにいけにえを献げようとしました。それを聞いたパウロとバルナバは服を裂いて人々の中に飛び込んでいき、彼らも同じ人間にすぎないと言い、偶像を離れて神に立ち返るよう促し、止めさせました。これらの経緯は使徒言行録14章8節から18節に書かれています。パウロとバルナバは前述のペトロとヨハネのように彼ら自身の信心で奇跡を起こしたのではないのです。栄光を受けられるのはただ神のみ、主イエスのみということなのです。
元の聖書箇所に戻ります。13節の前半部分で「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」とペトロは説教で言います。
これは、主イエスは神に栄光を与えられた、神に選ばれた人物であったということです。素晴らしいことです。
ですが、続く13節の後半部分から15節の「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、」まででユダヤの人々が神のご意思に逆らい主イエスを殺してしまったと責めています。いわば彼らの罪を明らかにしているわけです。
しかし、15節の後半部分「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」から16節まで神が主イエスを復活させ、完全にいやしたと述べています。
17節から20節では罪を犯した人々が知っていて罪を犯したわけでなく、知らなくて罪を犯したとペトロは言い、悔い改めて立ち返り、主から慰めを得なさいと勧めています。つまり希望を述べているのです。21節から26節までペトロは旧約聖書時代に信仰に生きた人々とその言葉を挙げていますね。「預言者達の口を通して、モーセ、サムエル、アブラハム」などです。当然彼らはユダヤ人たちにとって神から遣わされた人々であり、彼らは尊敬に値する人々であり、彼らの言葉は守るべき事です。彼ら、彼らの言葉は主イエスこそがメシアであることを証明しているとペトロは言っているのです。更に言うならばあなた方ユダヤ人たちもまたこれら神が契約を結んだ預言者達の子孫であり、特権を持っているのだから預言者達の言葉を守るべきであるとペトロは言っているのです。
ペトロは主イエスがご復活されたということを証言しています。彼らは証人であると述べています。
それは15節の後半部分に書かれています。それだけでなく旧約聖書時代に信仰に生きた人々を挙げたのはなぜでしょうか?彼らもまた主イエスの証人であることを示したいからです。
ここまでの知識はペトロ自身で得たものではないでしょう。聖霊の力によってなされたものです。ですがこの聖霊の力によって伝道が世界に広まっていったのです。もちろん迫害もありました。使徒言行録をみればその迫害の歴史でもあると実感できます。ですが、主の福音・宣教の御計画は止まりません。そして私達もその一端を担っているのです。
Comments