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「私達の宗教改革」

2022年10月30日 降誕前第8主日礼拝 宗教改革記念日

説教題:「私達の宗教改革」

聖書 : 旧約聖書 列王記下 22章8節-13節(617㌻)

   新約聖書 ヨハネによる福音書 3章3節(167㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 1517年10月31日にマルチン・ルターが「95ヶ条の提題」をドイツのヴィッテンベルト城教会の正門に張り出した事により宗教改革が始まりました。この95ヶ条の提題はローマ教皇庁による贖宥状の販売に対しての批判でした。贖宥状、日本では免罪符と言った方が馴染みがあるかもしれません。1515年ローマ教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築資金のために発行され、その抗議の為のルターによる95ヶ条の提題という事です。お金を払って贖宥状を買って罪が許されるという事はおかしいという事なのです。とある宗教団体は物品を買う事によって罪が許されるという事をされていたようですが、これは霊感商法と呼ばれるものですね。個人的な考えではありますが、この贖宥状の販売と何か似ていると感じてしまいます。ルターは新しい宗派を立ち上げるというよりも、カトリック教会の内部の改革を望んでいたようなのですが、結局カトリック教会から破門され、新しい宗派を立ち上げることになりました。


 私は今まで贖宥状の問題を話してきたのですが、それ以外にも教皇位の世俗化や聖職者の堕落、それらに対する信徒の不満があり、宗教改革の運動へと発展していき、ヨーロッパ各地にその運動が起こり、ルター以外にも様々な人々がこの運動に加わり、宗派を立ち上げました。ですが、先程申し上げたように、ルターの95ヶ条の提題が宗教改革の始まりであり、私達ナザレン教団を含む多くのプロテスタントの教団はこの宗教改革から生まれてきました。ですから、本日、このルターの95ヶ条の提題がはりつけられた日を私たちも記念するのです。

 さて、宗教改革という言葉を聞けば、多くの方々はこのマルチン・ルターの宗教改革を思い浮かべる事でしょう。そして、インターネットで検索してもやはり出てくるのはこの宗教改革の事です。

ですが、宗教改革を本当の神との正しい関係に戻るというように規定するならば、マルチン・ルターの宗教改革以前からいくつかの宗教改革は存在していたということになります。アブラハムの神による選びはどうでしょうか?アブラハムが元々住んでいた土地は多神教が崇拝される地でした。ですが、神は彼にその土地から離れるよう呼びかけ、彼はその神の呼びかけに応じ、神は彼と彼の子孫を祝福するという契約を交わし、彼を祝福しました。これも宗教改革と言えるでしょう。

 また、出エジプトではエジプトで奴隷状態であったユダヤ人達を救出するために神はモーセの前に現れました。神がアブラハム、イサク、ヤコブとの約束を覚えておられたからです。モーセは神の召命に応じ、アロンと共にエジプトの王と交渉し、様々な困難がありましたが、神による大いなる助けによってエジプトから仲間のユダヤ人たちと共に脱出しました。いわば神が彼らをお導き出されたのです。神がモーセの前に現れるまではユダヤ人たちはアブラハム、イサク、ヤコブの神の事は忘れていたに違いありません。ですが、ここでも神はユダヤ人たちと正しい関係を結ぼうとなされました。ですが、エジプトから導き出されたユダヤ人たちはこの神に逆らったために、約束の土地へ入ることが出来ませんで、子供達が入ることになりました。


 しかし入った人達の子供達がまた神に逆らい、他の神々を礼拝し始めてしまいます。神は彼らを異民族の支配下におきましたが、その支配がひどくなると、彼らは神を呼び求め、神は哀れに思い、士師と呼ばれるリーダーを起こし、異民族の支配から彼らを解放するのですが、安心するとまたぞろ彼らは元の状態に戻り、偶像崇拝に耽ったのです。そして、神の一連の行為、ユダヤ人たちを異民族の支配下に置き、彼らを救われるのもまた宗教改革であったろうと思います。なぜなら、彼らを異民族の支配下に置くことによって彼らに神を求めさせ、本当の神と彼らとの正しい関係(彼らが神の御名を褒め称え、神に感謝する)を築くよう導いたからです。もっともこの正しい関係も一時的なものであって、彼らはすぐ神から離れ、自分たちに都合のよい方向へと歩んで行ってしまいましたが。この場合は偶像礼拝でした。


 さて、本日の聖書箇所です。ユダ王国のヨシア王の話です。もうこれまで何度かお話しをしてきましたが、ダビデ王、そしてソロモン王の元でユダヤ人の国が確立されました。しかし、最初は神に従っていたソロモン王が偶像礼拝に陥り、神を捨てたので、彼の子が王位を継いでから、国がイスラエル王国とユダ王国に分裂しました。そして双方の国が神に逆らい、偶像礼拝と不正に満ちていました。ですので、神は彼らを神に立ち返らせ、神との正しい関係を築かせようと預言者を彼らに送りました。これもまた神による宗教改革と考えられます。しかし、多くの場合、彼らは預言者たちを迫害しました。


 ですが、このユダ王国のヨシア王はそれまでの王とは違いました。彼は神の前に正しく歩もうとし、歩んだのです。「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」

(列王記下22章2節)

 彼は国を神に立ち返らせるために様々な事を行ないました。これはヨシア王による宗教改革といえます。その一環として主の神殿に納められている民の献金を集計させて、主の神殿で律法の書を見つけたというものです。律法の書とは主がモーセに語り、モーセがそれを書き留めた書です。申命記31章9節から32章44節に書かれています。ヨシア王がこの律法の書が見つかったという報告を受け、実際この律法の書を聞いた時、彼は自らの衣を裂きました。そして部下たちに主の御旨を尋ねるよう命じました。「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」

(列王記下22章13節)


 ここで大切な事は何でしょうか?それは王の回心とそれに基づく行動です。

 王は神に立ち返ろう、国全体として神に立ち返ろうと心から願い、それを行動に移しました。これこそが宗教改革なのです。彼らの部下たちは王の命令通りに、預言者の所に行き、神の御旨を尋ねました。結果としてはあまり芳しくありませんでしたが、神はヨシア王に対して一定の評価をしました。神は律法の書にある通り、住民に災いを下すと言われました。しかし、この王はその災いを見ないで亡くなるということを言われたのです。注目すべきは神のこの文言です。

「主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。」

(列王記下22章18節から20節)

 先程申し上げましたが、大切なのは回心とそれに基づく行動なのです。ですが、まずは回心なのです。

 災い自体は取り消されないが、それを見ることがないという神の決定を聞き、王はどうしたでしょうか?「どうせ災いが下されるのだから神に従ったってしょうがないじゃないか。やめよう。」そう言って彼の信仰に基づいた宗教改革をやめたでしょうか?いいえ、彼はやめませんでした。それは列王記下23章1節から25節に書かれています。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」(列王記下23章25節)

彼を評する御言葉は先程挙げた 

「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」

(列王記下22章2節)とこの列王記23章25節です。

彼を評するのにダビデとモーセという二人の旧約聖書に出てくる信仰に生きた人の名前が挙げられているのはいかに彼が主に評価されていたかが表されています。

さらに「右にも左にもそれなかった。」「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」という表現も彼がいかに信仰に生きたかを表しています。

主イエスは律法の専門家にどの掟が一番重要かと問われ、申命記6章5節を引用しこう答えられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37節)

私達にこのヨシア王のような信仰があるでしょうか?

残念なことにヨシア王亡き後、またユダ王国は元の偶像礼拝に戻ってしまいます。

しかし、彼がされた事は主の前にあって小さい事ではありません。


 宗教改革という事であれば、主イエス・キリストがなされた事を忘れてはなりません。主イエスはこの地上に来られ、伝道をなされました。その時、度々、律法学者・ファリサイ派・サドカイ派の人々を激しく批判しました。彼らは神と人々との正しい関係を歪めてしまっていたからです。主イエスは神と人々との正しい関係を築かせようと伝道なさいました。しかし、主イエスはその途中で逮捕され十字架に架けられ、殺されてしまいました。普通であれば、道半ばで倒れられて無念であったとする事でしょう。しかし、この十字架の上で死するも神のご計画の内であり、そうする事で私達の罪の贖いをして頂いたのです。そして復活によって主イエスは死を打ち破り、神のご栄光を表されました。正にこれは主イエスによる、神ご自身による宗教改革です。さて、私達の分と申しますか、私達がすべき宗教改革とは何でしょうか?それが本日の第2の御言葉です。新たに生まれる事です。新たに聖霊によって変えてもらう事です。そして主イエスを信じる事です。ヨシア王のような信仰を持ち、主に従う事です。それを続ける事です。ヨシア王亡き後、ユダ王国は偶像礼拝に戻ってしまいました。ソロモン王は初め神に従っていましたが、後に偶像礼拝に陥ってしまいました。大切な事は継続です。信仰を持ち続ける事です。それが難しい。人間は弱いのです。ですから、主に頼るのです。聖霊にお願いするのです。私の信仰を保たせて下さいと。それこそが私達の宗教改革なのです。

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