top of page

「秩序ある礼拝」

2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝

説教題:「秩序ある礼拝」

聖書 : 新約聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 11章27-34節(315㌻)

              〃     14章26-33節、37-40節(319㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 Iコリントの信徒への手紙は使徒パウロがコリントの教会へ書き送った手紙です。内容としては「秩序を持ちなさい。」という事でした。もちろん、この手紙の最初の書き出しは挨拶なのですが、1章10節でパウロはある問題を指摘します。それはこの教会に混乱、派閥争いがあるという事でした。彼はそのようなことをせず、主イエスの元で一致しなさいと彼らに勧めたのです。その事を彼は10節から17節、もっと詳しく言うならば10節から3章の終わりまでかけて根気強く書いています。このような分裂、派閥争いというものは教会だけでなく、どこの世界であっても、例えば学校、政党といった人間のグループであればどこでも起こり得ます。


 しかし、このパウロの手紙を読んでみますと、この混乱は相当、深刻だったようです。要するにこれだけの混乱があるという事はこのコリントの教会は秩序がなかったという事です。ですから、パウロは「主イエスにあって一致するという秩序を持ちなさい」とこの教会に書き送ったのです。組織というものは一致していないと弱いものですから。主イエスが以前、悪霊を追い出された時、ある律法学者たちが「主イエスは悪霊の頭の力によって追い出しているのだ。」と言いがかりをつけましたが主イエスはこのように仰ったことを覚えている方はいらっしゃるでしょうか?「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」(マルコによる福音書3章23節から25節)これをコリントの教会に例えるのであれば、「教会が内輪で争えば、その教会は成り立たない。」という事になります。

 先ほども申し上げたように、コリントの教会にこのような混乱があったのはその教会に秩序がなかったからでしたので、パウロはこの教会に主イエスによる一致という秩序を持ちなさいと提言したのです。


 さらに、パウロは教会の人の不道徳な行為を指摘しました。これは5章に書かれているのですが、その不道徳な行為をしている人を除外するどころかその人を教会が受け入れているという事もパウロは指摘し、非難したのです。もちろん、これはその行為をしている人も罪を犯しているのですが、その人を受け入れている教会もまた罪を犯しているという事だと思うのです。ですから、この点においても、この教会に秩序がないという事になります。ですから、パウロはこの教会に対して「この人を取り除き、秩序を持ちなさい。」と強く勧めているのです。


 さて、本日の第一の聖書箇所ですが、聖餐式に関してです。ちょうどこの後聖餐式を行うので良い機会だと思うのですが、パウロはこのように言っています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Iコリントの信徒への手紙11章27節から29節)


 パウロはなぜ、このような事を言ったのでしょうか?その理由はこの箇所の少し前の11章17節から22節に書かれています。その中の21節に「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」つまり、彼らは好き勝手に振る舞い、主の聖餐の何たるかをわきまえていなかったという事でした。それは主のパンと杯を汚す事であり、罪であるという事なのです。ここでもこの教会は秩序がないという事を証明しています。

パウロは続けて、主の聖餐式とは如何なるものなのかを述べています。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

主イエスは私たちの罪のために十字架にお掛かりになられ、死なれました。そのお体と血をパンとブドウ液としていただき、主イエスの死を告げ知らせるのですから、疎かにすることができるはずはないのです。ですが、もし私達もこのコリントの信徒たちのように疎かにするのでしたら、私達もまた裁かれるのではないでしょうか?もちろん、私たちはこのコリントの信徒たちのようにお腹をすかして飲み食いする、もしくは酔っ払うなんて事をするとは思いませんが。ですが、この聖餐式というものは洗礼式と同じく聖礼典と呼ばれ、とても大切なものです。そして、洗礼を受けた者でなければ、この聖餐式に参加することはできません。そして、洗礼を受けるためには学びが必要ですし、何よりも、自分が罪人であるという自覚と悔い改め、そして主イエスに確かに自分の罪を贖っていただいたのであり、主イエスが復活されたという信仰を持たなければなりません。そのような学びもなく、確固たる信仰もなく、聖餐式に参加したいためにだけ、洗礼を受け、聖餐式に参加することもまた「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯す事になります。」という事になってしまうのではないでしょうか?やはり、洗礼、聖餐式という聖礼典においても秩序というものは必要なのです。


 本日の2番目と最後の聖書箇所でも使徒パウロは礼拝の秩序の重要さを強調しています。2番目の聖書箇所では異言と預言の事が書かれています。ですが、異言を語るにしても、預言を語るにしても、2、3人が順番に語り、必ず解釈する者がいなければならないと使徒パウロは強く推奨しています。解釈する者がいなければ黙っていなさいとまでパウロは言っているのです。さらに、預言する者に関して、もし誰かが預言をしていて、別の誰かが預言をし出したら、先に語り出した者は黙りなさいとまでパウロは言っているのです。ここでパウロが重要視しているのは秩序です。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(Iコリントの信徒への手紙14章33節)とパウロは言っています。

そして最後に「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」とパウロは言っています。


 ここまで、話してくると、「牧師先生、何か今日は秩序、秩序と言って、息が詰まりそうだよ」という声が聞こえてきそうな気がします。ですが、パウロも私も何でもかんでも規則でもってがんじがらめにする気は毛頭ないのです。実際パウロも律法主義には反対していました。ですが、昨今は何でもかんでもありという風潮がありますし、混乱、分裂というものは教会にとって良い事ではありません。この教会もそれを経験したはずです。そして、何よりも、神は混乱、分裂の神ではなく、秩序の神です。創世記1章から2章を思い出して下さい。神は天地万物を神の言葉で創造されたのです。いわば、混乱の中から秩序を創造されたのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

(創世記1章2節から3節)

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。…」(創世記1章31節)

神が混沌の中からお造りになられた秩序は極めて良かったのです。ですから、私たちの教会もまた混乱、混沌、分裂ではなく、秩序を重んじるべきではないでしょうか?

ความคิดเห็น


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
bottom of page