「秩序ある集会」
- urawa-church
- 2024年6月30日
- 読了時間: 5分
2024年6月23日 聖霊降臨節第6主日
説教題:「秩序ある集会」
聖書 : Ⅰコリントの信徒への手紙 14章26節-40節(319㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
コリントの教会が抱えている問題の一は分派の問題です。「わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケファ(ペトロ)に、わたしはキリストに」などと人々は言い合っていたということです。パウロはこの事を「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」と言って批判しています。なぜ彼らはこのような言い合いをしていたのでしょうか?それは自分のプライドです。それがわかるのがパウロの言葉です。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
(Iコリントの信徒への手紙1章27章から29節)
にもかかわらず、彼らは自分達を誇っていたということです。
パウロは言っています。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」(Iコリントの信徒への手紙3章1節から4節)
彼らはなぜ自分を誇っていたのか?それは自分が人よりも上でいたいというプライドです。最近よく言われるのがマウントをとるというやつです。そうすることで満足を得るということです。例えばある人がある特定の知識を持っていないからといって、その人の事を「そんな事も知らないんですか?」と言う事は主の御心にかなうことでしょうか?何がその人にそんな事を言わせているのでしょうか?
それは自分が上になりたいと言う事、人を見下そうとする事ではないでしょうか?そしてそれを言われた人がどういう思いをするかということを考えたことがあるのでしょうか?もしかすると、その言われた人が自分の知識の無さを反省して(悔い改めて)勉強するとでも思っているのでしょうか?
ルカによる福音書18章9節から14節にファリサイ派の人と徴税人の祈りが書かれています。ご存知な方もいらっしゃるかと思います。ファリサイ派の人は心の中でこのように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」一方徴税人はこのように祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」目を天に上げようともせず、胸を打ちながら。ファリサイ派の人ではなく、この徴税人が義とされました。
さて本日の聖書箇所です。異言と預言について語られていますね。異言の事に関しては私が以前ペンテコステ礼拝の時に話したと思います。聖霊の導きによって使徒たちがそれまで習ったことがない外国語で神の偉大なる御業を話し、その内容をその外国の出身でエルサレムにおとずれていたユダヤ人たちが理解したということです。ですが、異言というのはこのような理解できる外国語であるときもあればそうでないものもあるようです。そして預言は預言ですね。
異言と預言はたしかに素晴らしいものであり、聖霊の賜物であることは違いありません。ですが、ここでは集会の秩序も強調されています。どういうことでしょうか?まず解釈する者もしくは検討する者がいなければならないということです。Iコリントの信徒への手紙14章27節から30節にその事が書かれています。
さらに言うならば秩序があるということです。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。」
なぜパウロはこんな事を言っているのでしょうか?それは集会には秩序が必要だと言っているのです。なぜでしょうか?
それは「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(33節)さらに言うならば、教会員全員が異言や預言によって益を得るためでもあります。
「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」(26節)
「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、」(31節)
と書かれている通りです。
ですが、このパウロの言葉に反対する者が出てくることもパウロは予想していました。それが37節から38節に書かれています。
「自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。」
どういうことでしょうか?ここに書かれている人たちは自分に与えられた賜物を自慢し、自分を誇りとしている人々の事ではないでしょうか?私は預言する賜物、異言の賜物を持っている。だからパウロの言う事なんか聞くもんか。集会の秩序なんか関係ない。むしろ私達の言う事を教会員は聞け、パウロも聞けという勢いだったのではないでしょうか?
説教の前半部分で私が語ったプライドがそうさせています。確かに私達は主を受け入れ、主の恵みによって救われました。ですが、私達は主の御心にかなう生活をおくっているでしょうか?私達は日々悔い改めなければいけないのではないでしょうか?
キリストにあっての一致、全てを秩序正しく、そうすれば聖霊の導きによって信仰によって歩めるのではないでしょうか?
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