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「罪と悔い改め」

2024年8月18日 聖霊降臨節第14主日

説教題:「罪と悔い改め」

聖書 : サムエル記下 12章1節-10節(496㌻)、13節-15節​(497㌻)​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 人から怒られるというものは嫌なものです。学生であれば何でしょうか。学校の成績が悪くなって先生や親に怒られるということがあります。部活動に入っていれば、その競技の練習や試合でミスをしてしまい、同学年の人、先輩、もしくは顧問に怒られることもあるでしょう。やがて学校を卒業し、社会に出ますと、仕事でミスをしてしまうこともありますね。当然周りの同僚、上司、取引先に迷惑をかけてしまいます。場合によったら自分のミスのせいで取引停止なんていう深刻な事態になってしまうこともあります。そうなれば当然、取引先、上司、同僚から怒られるわけです。私も牧師になる前は様々な所で働いてきました。そして何度か仕事でミスをして怒られた経験がありますが、やはり嫌なものであります。


 さて今回の聖書箇所で怒られた人は誰だったかというとダビデ王です。小見出しではナタンの叱責とありますが、ナタンというのは預言者で彼がダビデの所に来て怒ったということです。主が預言者ナタンを通して怒ったとも言えるわけですが。

 これまでに私は何度か言ってきたのですが、何か主の御心にそぐわないことが行われた時に主は預言者をその事を行っている人物に遣わされ、警告や叱責をし、今も行っているのであれば、止めさせようとしますし、行ってしまっているのであれば反省をうながします。そして大抵預言者が遣わされる人物というのは身分が高い人物、王であることが多いですね。預言者というと貴族や王様に比べると社会的身分は低いという考えを皆さんはお持ちかもしれません。何かこう砂漠に住んでいて人を遠ざけて住んでいるイメージですね。ですが、先程言ったように主から権威を与えられ、主の御心にかなうよう世の中の不正を正す役割が与えられています。ですので、例え身分が高い王様であっても遠慮なく、堂々と意見するのです。


 それは旧約聖書の預言者の事が書かれた書を見ればおわかりかと思います。例えばイスラエルの王にアハブという人物がいました。彼はナボトという人からぶどう園を買い取るもしくは他のより良いぶどう園と交換しようとして彼に話を持ちかけます。ですが、ナボトは先祖から嗣業として受け継いできた土地を譲ることは出来ないとして断ります。当然断られたアハブは機嫌を損ね、宮殿に戻りました。

 妻のイザベルは夫の機嫌の悪さに気づき、どうしたのかと尋ねると、彼はこの話をしました。そしてイザベルは彼を力づける言葉をかけ、ある邪な企てを思いつきました。それはナボトが住んでいる町の長老や貴族たちに手紙を送って、ならず者たちにナボトが神と王を呪ったと偽証させ、彼を石で打ち殺させるというものでした。実際そのようになりました。その後イザベルは夫アハブを「ナボトは死んだからあのぶどう畑を自分のものにしてください。」とそそのかしました。そしてアハブはこの妻の言葉に従いぶどう畑を自分のものとしました。

 主は預言者エリヤにアハブの所に下っていき、アハブとイザベルの罪を明らかにし、彼らが受ける罰を告げるよう命じました。そしてエリヤはアハブの前に立ち堂々と主が命じられたことを告げたのです。これは列王記上21章1節から24節に書かれています。


 さて本日の聖書箇所に戻ります。私達がダビデに持っている印象はどうでしょうか?主に油を注がれた、選ばれた人ではないでしょうか?サムエルによって油注がれ、イスラエルの戦士たちを幾人も打倒したゴリアトを投石で打倒し、何度も敵との戦いで勝利したヒーローというイメージがあります。ですがそんな彼でも間違いを犯しました。それはバテシバという女性とのことで、今回この預言者ナタンによって叱責されることになった原因であります。


 ナタンはまず喩えを用いて語りました。サムエル記下12章1節から4節です。町に豊かな男と貧しい男がいて豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていたが、貧しい男は一匹の雌の小羊しか持っていなかったということです。

 確かに世の中には貧富の差というものが存在しますし、それはある意味しょうがない事かもしれませんが、これだけを見てみますとこの貧しい男に対して同情を感じます。そして聖書の中では豊かな人と貧しい人の話が出てきます。そして主は貧しい方に同情し、豊かな人に自分の行動に注意するよう(高ぶらないよう、慈悲の心を持つよう)呼びかける話があります。金持ちとラザロの話(ルカによる福音書16章19節から31節)、愚かな金持ちの話(ルカによる福音書12章13節から21節)などがありますね。     

 さて本日の聖書箇所に戻りますと3節の途中からですね。「彼はその小羊を養い 小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。」

 これを読んで皆さんはどう感じるでしょうか?この男は大切に大切にこの一匹しかない小羊を育ててきたということがわかるでしょう。彼の家族同然だったということがわかるでしょう。豊かな男がどのように羊や牛を育ててきたかは書かれていないのでわかりません。ですが、当然彼は豊かでしたから、人を多く雇っていたことが想像出来ます。ですから、この貧しい男ほど、羊を気にかけていなかったことが想像出来ます。

 そしてあることが起こります。この豊かな男に来客があったのですが、自分の羊や牛を惜しんでこの貧しい男が自分の家族同然に大切に育てていた一匹しかいない小羊を取り上げて自分の客に振る舞ったということです。(4節)

 自分は有り余るほど持っているにもかかわらず、惜しんで、一つしか持っていない者からそれを権力を使って取り上げる。このことに対してダビデは激怒します。「その男は死罪だ。4倍の弁償をしなければならない。」とまで言いました。


 ですがナタンはその豊かな男とはあなたであるとダビデに告げるのです。自分が非難していた男が自分だったというのは皮肉で滑稽なことです。自分がそのことに気が付かないのですから。ですがナタンに指摘されたダビデはショックであったことでしょう。

 この喩えの解き明かしは8節から9節のナタンの言葉で表されています。もう少し詳しい事情はサムエル記下11章に書かれています。つまるところダビデは自分の部下であるウリヤの妻バテシバを見初め、ウリヤを戦争の最前線に出して戦死させて、彼女を自分の妻としたということです。これはある意味、殺人です。戦死という偽装をした。それは預言者ナタンの言葉にも現れています。    

「あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、…ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。」(9節)

に書かれています。

 そしてナタンはダビデが受ける罰を宣告します。それが11節から12節、そして14節に書かれていることです。これらは後ほど起こります。14節に書かれているダビデとバテシバとの最初の息子が亡くなるということはすぐに起こります。それはすぐ後の15節から19節に書かれています。

 ダビデの事をいままで話してきましたが、皆さんは御存知だと思いますが、あのダビデもまた罪を犯してしまうのだということがおわかりかと思います。それだけ罪の力というものが強いものであることの証でもあります。  

こういうと私がだから罪にとどまっていていいんだと言っていると思われるかもしれません。もしくはダビデなんてあんなヒーローのようなイメージを持っていたのにだめだなと非難していると思われるかもしれません。


 そうではなく私達もまたダビデのように罪に囚われてしまう弱さを持っています。そして私達自身の力でそれに対抗することが出来ない。だから主に頼るしかないということなのです。確かにダビデは彼の罪に対して罰を受けました。しかしその罰は当初の罰よりも軽いものであったと考えられるのです。13節を御覧ください。ナタンの指摘を受けた時のダビデの言葉です。「わたしは主に罪を犯した。」とあります。彼はすぐに悔い改めました。言い訳をせずに。さらに詩編51章1節から19節に彼の悔い改めと祈りが書かれています。これが大切なのです。そしてこの悔い改めに導く力こそが聖霊の働きなのです。だからこそナタンがダビデにこう言ったのです。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(13節)

 私はアハブ王の話をしました。彼は妻のイザベルと共に悪い王として有名でした。偶像崇拝をし、主の預言者たちを殺してきました。ですが、預言者エリヤにあのぶどう畑をめぐる取引での罪を指摘されたとき彼は悔い改めたのです。驚くべきことです。

「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。」(列王記上21章27節)とあります。


 それを受けて主は顧みられました。「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」(列王記上21章29節)

 ダビデ王とアハブ王、一方は主に従う王、他方は主に反逆してきた王です。ですが、双方とも自分の利益のために他人を殺しました。ですが彼らは悔い改めたのです。そして主はこの悔い改めを軽んじることはありません。

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