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「聖霊の実」

2024年4月21日 復活節第4主日 

説教題:「聖霊の実」

聖書 : ヨハネによる福音書 15章18節-27節(199㌻)​​

​   ガラテヤの信徒への手紙 5章16節-25節(349㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 迫害というと日本に住んでいる私達には何かピンとこない気がします。もちろん、この日本でも過去キリスト者が迫害されてきました。それは歴史が証明しています。ですが、今キリスト者がキリスト者であるという理由で逮捕されたり、あからさまに不当な扱いをされるというのは日本ではあまり聞いたことがありません。もちろん、私が知らないだけなのかもしれませんが。

 そして最近では多様性、ダイバーシティーということが尊重されています。つまりそれぞれの個性を大事にしようということです。今年2月のナザレン新報で篠沢忠俊先生も多様な価値観の中で生きると題して寄稿されました。

また多くの外国人の方々が日本を訪れています。また訪れているだけでなく住まわれてもいます。働いてもいます。

そういう方々の価値観を大事にしなければいけません。

 こういう多様性を尊重する社会に日本もなりつつあるので、キリスト者であるということが何か人から迫害されるということはあまりなくなってきているのではないかと思うのです。

 しかし、迫害されないまでも、キリスト者でない知り合いや友人たちとの間に目に見えない壁のようなものを感じてしまうときがあるかもしれません。なかなか自分がキリスト者であるということを親しい友人に積極的に打ち明けようとするのは難しいですね。もしかすると、そのことでこれまでの関係がこわれてしまうかもしれない。       

何か間違いを犯してしまった時(人はだれでも間違いをおかすわけですけれど)、キリスト者のくせにと見下されるかも知れない。だから自分がキリスト者であると打ち明けなければならない場面が来るまではその事を言わないでおこうとするかもしれません。また親しい友達の間ではなくてもそのようなことがあります。

 以前もお話したことがあるのですが、私が若い頃あるスーパーの販売員のアルバイトの面接を受けたことがあります。当然日曜日というのはスーパーにとってかきいれ時ですので、その日に働くことが期待されていたのですが、当時私は教会に通っていたのでその日に働くことは出来ないということを面接で担当の方に申し上げました。その方は理解のある方でその事を了承していただいたのですが、何か不思議な者でも見るような感じを受けました。また働き始めてから同僚からも何か疎外感のようなものを感じました。もちろんいじめられたということはないのですが。私が住んでいた地域というのは関東でまだこのような対応は比較的マシなのだと思います。ですが、地方にいけばよりキリスト者に対してそのような違和感をもつというのは激しいのではないかと思われます。もちろん、地方によって異なるでしょう。

 さらに国外に目を移せば未だに異なる宗教同士で戦争、戦闘が起こっている地域があり、強い者が弱い者に一方的な暴力や暴行を振るっているという現実があります。それに比べれば日本はまだいい方なのかもしれません。このようにキリスト教に対する壁はありますが、多様性を受け入れる、そしてソーシャルメディア、フェイスブックなどの発達で個人がどんどん情報を発信できる環境が整うことによってこの壁も低くなっていくのではないかということです。つまり、私達がキリスト者であるということを抵抗なく言えるようになっていくのではないかということです。

 しかしこのような状況が必ずしも良いこととは言えません。以前にも言いましたが、誹謗中傷が増えてしまうということです。そしてたとえ誹謗中傷でなくても自分の言ったことに責任を取らないことが許されていることです。先日も申し上げたのですが、大谷選手が通訳の水原さんにお金を盗まれた時、大谷選手が水原さんの肩代わりをしたもしくは大谷選手が賭博に関わったということを断定的に著名なコメンテーターや弁護士と呼ばれる人々がユーチューブやテレビのワイドショーで言いました。もちろん、彼らが疑いをもつのはわかるのですが、断定をしてしまうのは違います。そして彼らは間違っていました。彼らの何人かは謝罪しましたが、ほかの人々は何事もなかったようにさらに水原さんを非難し、大谷選手を脇が甘いといって非難しています。まるで自分たちの間違いを覆い隠すように。ユーチューブならまだわかるのですが、公共の電波で自分たちの間違いを認めず謝罪もしないでこのようなことが行われている。ここが問題なのです。自分たちが間違ったことを断定的に言っても謝罪しなくてもいいということが公の場で認められてしまっているのです。

 政治家の裏金の問題もそうです。本来であれば彼らは税務署の指摘によって税金を払わなければならないもしくは検察に追求されてなければならないにもかかわらず、政党内の処分で収めようとします。つまり本来彼らが果たすべき責任を果たしていないことになります。

 こういったことをこれも多様性だと受け入れるようになっています。世の中こういうものだよということで。長々と話してきましたが、本日の最初の聖書箇所で言われているところの「世」とはまさにこのことではないでしょうか?

 本日の聖書箇所で書かれている「世」を考えてみるとそんなにこの「世」は悪いものなのかと思われる方もいらっしゃると思います。日本に限ってみれば大規模なテロがしょっちゅう起こっているわけでもあるまいし、何かこの世を悪魔の巣窟のように仰っているんじゃないですか先生?という声が聞こえてきそうです。

 ですが先程私が申し上げた現状を冷静に見てみるとやはり本日第一の聖書箇所で書かれているような悪い世なのです。もしそう感じていないとしたならこの世に取り込まれているのではないでしょうか?

 「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

(ヨハネによる福音書15章19節)

 私達はこの世に取り込まれないよう注意を払わないといけません。そのためには聖霊に導かれる必要があるのです。26節に書かれている「弁護者、真理の霊」に導かれる必要があるのです。

 そうされることで私達は正しい判断ができるようになります。それが聖霊の実です。本日の第2の聖書箇所、ガラテヤの信徒への手紙5章16節でもこのように書かれています。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 しつこいと思われるかもしれませんが、大谷翔平選手をあのように決めつけたコメンテーターの動機は何でしょうか?「そんな聖人君子なんかいやしない。」「裏で何か悪いことやっているんだろう。」「どうせお金持ちの道楽で博打をしたに違いない。」「お金持ちで清廉潔白と言われているヒーローが堕ちるさまを見てみたい。」といったものではないでしょうか。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙5章19節から21節に肉の業としてこのようなものを挙げています。

「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」

 さて大谷選手をあのように決めつけたコメンテーターはどうでしょうか?そしていま挙げた肉の業を行う者は、神の国を受け継ぐことはできないとパウロは言っています。

 一方でパウロは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を霊の結ぶ実としています。

 果たして私達はあのコメンテーター達の仲間となって肉の業を行い続けるのでしょうか?それとも霊の実を結ぶのでしょうか?

 霊の導きに従って生きられるよう祈りましょう。

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