「聖霊の賜物」
2023年5月28日 聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨日 ペンテコステ
説教題:「聖霊の賜物」
聖書 : 旧約聖書 創世記 11章1節-9節(13㌻)
新約聖書 使徒言行録 2章1節-11節(214㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は聖霊降臨、ペンテコステの日です。ご復活された主イエスが天に帰られた後に聖霊が降り、人々が主イエスの証をした日です。そしてこの日が教会の誕生日ということです。ですので、主イエスの誕生日であるクリスマスやご復活日であるイースターと同じくらい大切な日です。ですので、この教会の誕生日のペンテコステをお祝いしたいと思います。
先程、私は聖霊が降り、人々が主イエスの証をしたと言いましたが、具体的には何が起こったのでしょうか?本日の第2の聖書箇所である使徒言行録2章2節から4節に書かれています。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
まず、私達がわかることは何か普通でないこと、スーパーナチュラルな事が起きたということです。奇跡が起こったということです。
奇跡が起こるという事はそこに神の意思と力が働いている事を意味します。主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時、度々奇跡を起こされました。もちろん、主イエスの説教、御教(みおし)えは大切です。
ですが、主イエスがなさった奇跡、業(わざ)もまた大切です。その事が主イエスが神から来られたという証拠であるからです。
ある目の見えない人がおりましたが、主イエスに出会い、癒やされ、目が見えるようになりました。通常であれば、これでハッピーエンドとなるのです。ですが、彼の場合はそうはなりませんでした。彼が癒やされた日が安息日、つまり、労働をしてはならない日だったのです。ですから、彼はファリサイ派の人々の前に連れて行かれて査問を受けました。その時、ファリサイ派の人々は主イエスは安息日を守らないから罪人だと非難しました。しかし、この癒やされ、目が見えるようになった人は彼らの主張を否定し、このように答えたのです。
「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
(ヨハネによる福音書9章31節から33節)
また、主イエスはファリサイ派の人々や律法学者達があまりにも反対しているのに憤りこのように仰いました。
「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
(ヨハネによる福音書10章37節から38節)
さらに、主イエスは物分りが悪く、主イエスに「わたしたちに御父をお示し下さい。」と言う弟子のフィリポにこのようにお答えになられました。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うことを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
(ヨハネによる福音書14章11節)
奇跡、業というものは神の御力(みちから)であり、神の臨在で、それを起こす人物は神から来た者であるということを示します。
ですから、この使徒言行録で起こった事もまた神の御力であり、神の臨在、そして聖霊降臨を示しています。確かにこの事は奇跡であり、神の御力であり、神の臨在、聖霊降臨を示しているのですが、より具体的に、この起こった事を見ていきたいと思います。
過ぎ越しの祭りというものがユダヤ教といいますか、ユダヤ社会にあります。それは旧約聖書の出エジプト記に書かれている神がエジプトで行われた過ぎ越しという行為から来ているお祭りなのです。かつてユダヤ人はエジプトで奴隷の状態でした。その状態から彼らを救い、カナンの地に導き入れられたのが主でした。しかし、そこに至るまでに長い道のりがありました。
まず彼らがエジプトを出るまでに、長い苦労があったのです。
エジプトの王ファラオはなかなか彼らをエジプトから出て行かせませんでした。ですので、主はファラオとエジプトの民に何度も罰を与えたのです。その罰の一つとして主はエジプトに住む人々、上はファラオから下は奴隷に至るまで彼らの長子を打ったのです。
事は人間だけではなく、家畜の長子もまた打たれました。
しかし、ユダヤ人の長子は打たれませんでした。彼らには家の門柱と鴨居(かもい)に傷のない子羊の血を塗るよう主はモーセを通して言い渡されました。主はその塗られた血を見て、その家を過ぎ越されたのです。この事をお祝いするのが過ぎ越しの祭りで、その祭りから50日目にお祝いするのが五旬祭です。
少し説明が長くなりましたが、その日にこの事が起こったということです。そしてここで注目するのは「言葉」なんです。
2節では激しい風と音があったということが書かれていますが、3節です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
この炎のような舌というのは聖霊の現れだと思います。聖霊の働きには様々なものがあります。ですが、今回は舌の形を表しました。
舌という器官は私達が言葉を話す上で必要です。舌を何らかの原因でなくしてしまうと言葉を話すことが困難になります。
また、舌をなくしていなくても、この器官がうまく動いてくれないと、うまく言葉を話すことが出来ず、それを聞いている人達もよく聞き取れないということが起こってきます。
「滑舌が悪い」「舌たらず」という言葉はいずれも喋(しゃべ)っている言葉が不明瞭(ふめいりょう)な事を意味しますが、「舌」という言葉が使われています。いかに「舌」が「言葉」を話すために重要であるかということが分かります。実際話すことを職業にする人たち例えば、政治家、アナウンサー、落語家といった噺家(はなしか)も舌のトレーニングをしていると聞いています。そういうことであれば、私のような牧師もしなければいけないかもと思いますが。
さて、話を元に戻しますと、この炎のような舌が分かれて一人一人の上にとどまった後、何が起こったかというと、この炎がとどまられた人たちは聖霊に満たされて、他の国々の言葉で話し始めました。4節ですが、まず、ここで重要なことは「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに」です。「聖霊に満たされ」という表現で聖霊降臨ということがはっきり示されています。しかも、「“霊”が語らせるままに」という表現は「聖霊に任せる」「神に任せる」という意味です。逆に言えば、「自分が主体ではない」ということです。この事は信仰に歩む者の態度の一つであると私は考えます。
よく伝道をする時に「私の伝道」「私が」「私が」という方がおられるのですが、そうではなく、「神の伝道」なのです。「神の伝道」に私達は参加しているに過ぎません。
こういう考え方があります。私はアメリカの神学校でも、そしてつい先日お茶の水のクリスチャンセンターで行われた牧会セミナーでも学んだことは「神は私達を必要としていないが、必要としている。」ということです。皆さんの頭の中には多くのクエスチョンマークが浮かんでいることでしょう。「牧師先生何を一休さんのとんちみたいなことを言っているのですか?」と言われる方もおられると思います。
私が「神は私達を必要としていない。」という意味は神が完全であるから別に神お一人でも伝道をなさることは可能であるということです。私が「神は私達を必要としている。」という意味は神が私達と良き関係を持ちたがっているということです。私達は聖徒の交わりを信じると言っています。それはとても大切ですが、神との良き交わりも大切ですね。つまり神との良き関係も重要だということです。律法で最も重要なことはと主イエスが問われたことがありました。主イエスはこのように答えられました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛すること」であり、2番目に重要な律法は「隣人を自分のように愛すること」でした。
つまり、神との良き関係が一番、教会員との良き関係(聖徒の交わり)が2番ということになります。
ですから、聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、語ることは神に自分を全く任せるという意味で神との良い関係、良き交わりが出来ているということではないでしょうか。
さて、4節の最後の部分では「他の国々の言葉で話しだした」とあります。この他の国々の言葉を語っている人々は主イエスの弟子達でした。少し先に進み7節で出てくる人々の言葉を借りると、ガリラヤ地方の人々で外国に居たことはありません。さらに当時の主イエスの弟子達は何か高等教育を受けたわけでもありません。
何が言いたいかというと外国に居たこともない、高等教育を受けたこともない人々が外国語を話せる道理がないのです。
ですが、エルサレムに集まっていた外国出身のユダヤ人達はその出身地の言葉をこのガリラヤ人たちから聞いたのです。正に驚天動地(きょうてんどうち)の光景です。奇跡です。彼らの驚きようを表しているのが5節から11節に書かれています。
ですが、この驚くべき業、つまりガリラヤ出身の高等教育を受けていない人々が外国語を話したという事実よりも、その内容に注目します。11節の最後の箇所です。
「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞くとは。」と聞いた人々は驚いているわけです。
何もこのガリラヤの人々が外国語で何でもかんでも語っている事が重要ではないのです。「神の偉大な業を語っている」事が重要なのです。「神を賛美すること」が重要なのです。
そこで本日の最初の聖書箇所に行きます。創世記11章1節から9節です。バベルの塔の話です。その頃世界中人々は同じ言葉を使っていました。彼らは自分達が散らされないために、そして自分達が有名になるために天に届くような塔を建てようとしました。これがかの有名なバベルの塔です。彼らの動機、そしてこの動機に基づく行動は主の御心に背くものでした。どうしたでしょうか?ここでの彼らの動機は「自分達が散らされないようにする。」「自分達が有名になる。」です。特に「天に届くような塔を建てる。」ということがいただけません。神に取って代わろうとでもいうのでしょうか?
創世記のアダムとエバの物語を思い出してください。
エバは蛇の誘惑「善悪を知る実を食べれば、神と同じように善悪を知る者になれる」にだまされその実を食べ、また実をアダムに渡し、アダムもまたそれを食べました。動機は「神のようになる。」です。彼らは楽園を放逐されました。
同様にこのバベルの塔を建てていた人々の言葉も天から降ってきた主によって乱されました。互いの言葉が分からなくなったのです。人々は塔を建てるどころではありません。彼らは塔を建てるのを辞め、世界の各地に散らされました。この塔があった町の名をバベルと言います。それは神が彼らの言葉をバラル(ヘブライ語で混乱を意味する。)させたからです。
このように人々は自分を誇示するために行動を起こした結果、神の御業(みわざ)によって言葉が互いに分からなくなりました。混乱させられました。しかし、ペンテコステの日はどうだったでしょうか?もちろんその当時でも言葉はそれぞれ違っています。しかし、神の御業(みわざ)によって理解することが出来たのです。なぜでしょうか?
それは自分を誇示するのではなく、自分を明け渡し、神を褒(ほ)め称(たた)えるためだったからです。言葉は自分を誇示するためでなく、神を褒め称えるため使われるということをこの事は示しています。
またペンテコステまでの出来事を忘れてはいけません。つまり、主イエス・キリストのお誕生、地上での伝道、十字架でのお苦しみと死、そして復活と近しい人とのお交わりと昇天です。
そして主イエス・キリストこそが、ヨハネによる福音書によれば、神の「言(ことば)」、真の「言(ことば)」です。そしてこの「言」は乱されないものであるからです。
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