「聖霊の賜物」
2024年5月19日 聖霊降臨日(ペンテコステ)
説教題:「聖霊の賜物」
聖書 : 使徒言行録 2章1節-11節(214㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は聖霊降臨日です。使徒たちの上に聖霊が降り注いで彼らが力を得た日です。主イエスがまだ地上で伝道なさっておられたとき弟子たちにこのように語られました。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることを あなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネによる福音書16章7節から14節)
またご復活された主イエスが弟子たちの前に現れたときも主イエスはこう仰いました。「聖霊を受けなさい。」
(ヨハネによる福音書20章22節)
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1章4節から5節)
そして主イエス・キリストが弟子たちに言われたように、主イエスが天に帰られた後、聖霊が弟子たちの上に降り注ぎました。まさに神はご計画どおりに事をなしておられるということがわかります。
本日の聖書箇所です。「五旬節の日に一同が一つに集まっていた。」ということが1節に書かれています。五旬節とは何かといいますと、過越しの祭りから50日目を祝う祭りです。その時に主イエスの弟子たち一同は一つの家に集まっていたということです。五旬節を祝うためでしょうか?当然彼らもユダヤ人ですのでそうだったかもしれません。ですが、復活された主イエスが彼らの前に現れ、「エルサレムを離れずに約束されたものを待ちなさい。」と言われたので、その言いつけを彼らは守ったとも言えるでしょう。それと同時に彼らはまだ他のユダヤ人に対しての恐怖心があったのかもしれません。ヨハネによる福音書20章19節には弟子達がユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけていたと書かれています。ですので弟子達一同が家にいたと聞くとどうしてもそのイメージが浮かび上がってきてしまうのです。
ですがそんな弟子達を力づけ、変えるような出来事が起こったのです。それが聖霊降臨です。「一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と4節に書かれています。
これは異言というものです。この弟子たちはガリラヤ出身のユダヤ人ですから外国語を学んでいないのは確実です。そのような人々が外国語を話すなんて考えられないことです。私も英語を学んできましたし、アメリカにも留学しましたので多少英語を話すことができますが、全く英語を学んだことがない人が英語を喋れるようになるなんてありえません。ですから奇跡なのです。
ですが奇跡だからすごいというだけではないのです。これには意味があるのです。まず奇跡ということは神の御業であるということです。主イエスがこの地上で病気の人々を癒やしたり、悪霊を追い出したりしました。奇跡です。この奇跡、業こそが主イエスが神の御子であることの証明になったのです。主イエス御自身が「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネによる福音書14章11節)と仰いました。
つまりこの聖霊降臨によって外国語を習ったことのない主イエスの弟子達が外国語を話すという奇跡が行われたということは神の臨在があり、弟子達が神から来たという証になっているということです。
この奇跡にはまだ意味があります。それは外国出身のユダヤ人たちが五旬節なのでエルサレムに帰ってきていたのですが、彼らは彼らの出身の言葉で主の御業が語られているのを聞かされたということです。弟子たちはガリラヤ出身でした。そのガリラヤ出身のユダヤ人たちから自分たちの故郷の言葉を聞かされたのです。それは驚きなのですが、ポイントは主の偉大な御業が語られているということです。つまり主がほめたたえられて、福音が語られているわけです。宣教です。先程私は主イエスが生前弟子たちにお語りになられた言葉としてヨハネによる福音書16章7節から14節を挙げました。その後半部分はこうでした。「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
まさに弟子達が異言で話しているのはこれです。
また旧約聖書の創世記11章1節から9節でバベルの塔の物語が書かれています。人類は散らされることのないように、さらには自分たちが有名になろうとして天にまで届く塔を作ろうとしますが、この企ては主が降って行って、彼らの言葉をかき乱し、彼らがお互いに理解できなくしてこの計画は失敗します。そして彼らは地上に散らされていきました。ちなみにヘブライ語で混乱する、散らすという言葉はバラルといいます。バベルの塔のバベルはこの言葉から来ているのではないかとされています。主は彼らの言葉をバラル(混乱)させ、彼らをバラル(散らす)させたのです。なぜでしょうか?彼らは以前人類の言葉は一つでお互いに理解することができたのですが、彼らは自分たちを高めようとし、主の御心に反する行動をしたからです。
一方でこの聖霊降臨の日はどうでしょうか?この外国から来ていたユダヤ人たちは弟子達が自分たちの言葉を話し、理解できました。その内容は自分たちを高めることではなく主を高めること、主を褒め称えること、福音を伝えることでした。つまりバベルの塔を建てる目的とは真逆の内容でした。それは言葉をバラルし、人々をバラルするものではなく、それによって人々を主の元に呼び集めることでした。それを可能にしたのは聖霊でした。この異言は聖霊の賜物であり、聖霊の働きなのです。
さらにこの聖霊の働きには意味があります。それは福音が異邦人を含め、全世界に述べ伝えられる先触れであるということです。確かにこの外国出身のユダヤ人達がこの奇跡に圧倒されたということは事実です。本日の聖書箇所ではありませんが、この後ペトロの説教を聞き、多くのユダヤ人たちがバプテスマを受けました。ですが、この福音が後に異邦人に、全世界に広がっていったということを私達は知っています。いや私達自身がその証人なのです。この弟子達が異言で外国語を話したということがその先触れなのです。これは主イエスが天に帰られる前に仰ったことです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)
聖霊の賜物はこれだけ素晴らしいものですが、様々な働きがあります。ですが根本は主を褒め称えることです。私達にはペンテコステの日に見られたような一見すると派手な聖霊の賜物を与えられないかもしれません。ですが私たちにも聖霊はお働きになっています。そして私達に主を褒め称えさせる力を与えてくださると信じています。
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