「自尊心」
2021年3月21日 受難節第5主日礼拝
説教題:「自尊心」
聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書10章42-45節(83㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
人は誰でも自尊心というものを持っています。しかし、その事が他者に対して高ぶり、人を傷つける言動を取ってしまうことがあります。この事は私達の日常でよくあることです。私達自身がそういう行為を行っている、もしくはそういう事を行っている人々を見かけると思います。社会的地位を持っている人々や経済的に豊かな人々はそのような事を行いやすいのかもしれません。
キリストの弟子たちもまたこの自尊心から逃れることは出来ませんでした。本日の聖書箇所の少し前、同じ10章の35節から37節でヤコブとヨハネが主イエスに願い出ます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37節)ヤコブとヨハネはペトロとともに主イエスが変貌し、モーセとエリヤと語り合った山に連れて行った弟子たちでした。彼らはペトロと共に他の弟子たちより、主イエスに近い存在でした。しかし、そのことが彼らに自尊心を持たせてしまい、このような願いを口に出させてしまったのではないでしょうか?彼らは他の弟子たちより上になりたいから、主イエスにこのように願ったのではないでしょうか?または、彼らはもうすでに他の弟子たちより、上であると確信していたので、主イエスの右と左の席に座るのは当然だと考えていたから、このような事を主イエスに願ったのではないでしょうか?何れが理由であれ、彼らの願いは自尊心から来ています。彼らの願いは会社での派閥争いか何かで有能な上司についていく部下のセリフを彷彿とさせます。「いずれあなたが社長になりましたら、私を専務にお願いします。」というような事です。つまり、この世とこの世の論理を表しています。
ヤコブとヨハネ以外の弟子たちはこの事で腹を立てます。ヤコブとヨハネは抜け駆けをしたからです。もしかすると、ヤコブとヨハネが普段から主イエスと親しいので、その事も相まってその他の弟子たちはヤコブとヨハネに腹を立てたのかもしれません。しかし、彼らもまたヤコブとヨハネのように主イエスの右側と左側に座りたいと思っていたのではないでしょうか?ですからヤコブとヨハネに対して腹を立てたのです。これもまた自尊心であり、そこから出た嫉妬です。彼らもまたこの世とこの世の論理を表しています。このように主イエスの弟子たちはこの世の論理に縛られていました。それは私達にも当てはまるのです。なぜなら、このように人より偉くなりたい、上になりたいという自尊心や嫉妬心は私達の心の中にあり、ごく当たり前の事として私達は受け入れているからです。
しかし、主イエスは言われるのです。そうであってはならないと。本日の聖書箇所です。42節で主イエスは「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言っています。今、世界を見回してみて、独裁政治はいまだ存在します。たとえば、ミャンマーで軍部が政治の実権を握り、国が危険な状態であります。しかし、世界は徐々にではありますが、民主化に進んでいると感じていますし、今私達は民主主義国家の日本に住んでいます。ですが、その民主主義の日本ですら、会社、政治団体、学校などで支配構造と呼ばれるものがあるのです。そして上下関係によるパワハラ、モラハラ、いじめが存在します。それがこの世なのです。そして、私達がこの事を受け入れている限りこの世の住人なのです。
しかし、主イエスは43節から44節で私達にそうであってはならないと言われます。そして、私達に人に仕える者になりなさいと言われます。主イエスが言われることはこの世の論理とは正反対です。少し前に流行った言葉で勝ち組、負け組という言葉がありました。経済的に成功し、社会的地位を手に入れた者が勝ち組であり、仕事のない人、低賃金で働いている人々は負け組という図式です。ここに生まれるのはどういったものでしょうか?勝ち組と呼ばれる人たちが負け組の人たちに抱く自尊心と負け組の人達が勝ち組の人達に抱く嫉妬心、怒りなどではないでしょうか?これこそが、この世なのです。主イエスはこのような論理を打ち砕くために来られました。ですから、45節で主イエスはこう言われています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そして、主イエスは私達の罪の贖いのために十字架に掛かられました。主イエスの弟子である私達もこの世の論理ではなく、仕えるために歩んでいこうではありませんか。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33)という主イエスの言葉を信じていきましょう。
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