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「苦難の共同体」

2023年7月30日 聖霊降臨節第10主日

説教題:「苦難の共同体」

聖書 : 新約聖書 Ⅰペトロの手紙 3章13節-22節(432㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 新約聖書で手紙と聞くと、差出人として思い浮かべるのは使徒パウロではないでしょうか?少なくとも私はそういう印象をもっています。ですが、パウロ以外も手紙を書いています。本日はパウロ以外の人物、使徒ペトロが書いたIペトロの手紙3章13節から22節を取り扱っていきます。先程も申し上げたようにこの手紙の差出人は使徒ペトロです。もう皆さんはお分かりかと思いますが、漁師だった彼は主イエスによって弟子として召されました。そして主イエスと共に伝道をし、主イエスを神の御子、キリストであると告白し、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われたほどです。ですが、主イエスが逮捕された時、他の人に主イエスの弟子であるか問われ、三度も否定し、逃げてしまったペトロ。

その後もユダヤ人たちを恐れて他の弟子たちと一緒に家の中で震えていたペトロ。

しかし、ご復活された主イエスは彼らにお会いなされ、彼らは勇気づけられました。そして、ペンテコステの日に聖霊を受け、力強い証と説教をし、多くの者が主イエスを受け入れ、洗礼を受けました。

その後、ユダヤ人たちに捕らえられ、議会で取り調べを受けたが、堂々と証をしたペトロ。そして伝道を続けたペトロが書いた手紙です。そして受取人は本日の聖書箇所ではないのですが、1章1節に書かれているように、ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤという地域に寄留していたユダヤ人キリスト者です。

 さて、本日の聖書箇所に入っていきます。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(1ペトロの手紙3章13節から14節)

13節と14節を一緒にしてしまいましたが、13節でペトロは「善いことに一生懸命であるならば、害を人から加えられるはずはない。」と言っていますね。至極常識的な事です。ですが、14節で「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と言っていますね。「義のために苦しむ」ですと何のことですかと思います。その前にペトロは「善いことをしていて、人から害されることはない」と言っているにも関わらず、「義のために苦しむ」と言っているのです。


 確かに一般的にみても、常識的にみても、「善いことをすれば、人から褒められこそすれ、害されることはない。」ということは言えるのですが、世の中はそんな単純な物でもないのです。例えば現代で言えば、お金を寄付したとしても、売名行為、自己満足といった言葉がインターネットやワイドショーなどで聞かれます。妬みですね。

では新約聖書時代ではどうだったでしょうか?主イエスが病人や悪霊に憑かれた人たちを癒やしていた時、ファリサイ派の人々、律法学者達はどういう対応をしたでしょうか?安息日にそのような行為をしていたから非難したり、自分たちが出来ないから、悪霊によって悪霊を追い出しているのだと言ってみたりと散々でした。これもまた妬みです。なによりも、使徒達が福音を伝えることに対してユダヤ人宗教指導者達、異邦人の権力者達は反対し、キリスト者達を迫害してきました。だからペトロは14節に書かれていることを手紙で書き送ったのだと考えます。つまり、ペトロは義のために苦しみを受ける可能性があると言っているのです。しかし、ペトロは「幸いです。」と言っていますね。これもまた矛盾に満ちた言葉です。通常悪いことをして、苦しみを受けるのであれば、しょうがないと思いますね、ですが、善いことをして苦しまなければならないなんて理不尽だと思いますね。ですが、幸いだと思いなさいと言っているのです。ですが、これがキリスト教の教えなのです。主イエスの山上の説教にはこれらの事が書かれています。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5章10節から12節)


 ペトロは14節でこのように言っています。「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」

イザヤ書2章22節にはこのように書かれています。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」

つまり、主は預言者イザヤを通して人を恐れるなと言っているのです。

主イエスご自身が仰いました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」

ヨハネによる福音書14節1節です。

ですから、14節の後半部分から16節までを要約すると、人の意見(私達を恐れさせたり、キリスト者の道から意図的であろうがなかろうが、それさせようとする)には耳を貸さず、キリストを見上げ、キリストを上にしっかりと立ちなさいとペトロは言っているのです。さらに15節の後半部分から16節にかけては反対者たちにはしっかりと敬意をもって弁明しなさいと言っていますね。

それは希望についてだとも言っています。希望とはなにか?

主イエスが私達の罪のために十字架の上で亡くなられ、わたしたちの罪が赦されたこと。その主がご復活し、死をうち破り、天に帰られた事、そして再び主が戻って来られるという事、私達がそれらを受け入れた事、やがて私達も復活するということです。

その事を反対者たちに節度を持って答えるのです。

 18節からはキリストは罪がないにも関わらず、私達の罪のために十字架の上で苦しまれたこと、肉体の上では一度は死なれたのですが、霊の上では生きて、ノアの洪水の時に救われなかった人達の霊に宣教をされたというから驚きです。 

 ですが、重要な言葉があります。それは「水」です。ノアの箱舟でノアと彼の家族が救われたという話を20節でペトロはしています。

その時救われたノアの家族達をこのように表現しています。

「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(1ペトロの手紙3章20節)

続く21節で「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」

とあります。ノアは神の呼びかけに応じて箱舟を作り、彼の家族もそれに従い、箱舟に入りました。これは「神に正しい良心を願い求めることです。」(21節)そしてノアの箱舟は大嵐の中を漂った。水の中を。洗礼もまた水によって受けますね。つまり両方とも神に従うことを表しているのです。詩篇66篇12節にはこう書かれています。

「人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた。」

この水の中とは出エジプトに出てくるイスラエルの民が海の乾いた所を渡られたことを言っているのですが、ここでも神がイスラエルの民を助け、民が神に従ったことが書かれています。そして水です。つまり彼らもまた水の中を通ることによって水のバプテスマを受けたということです。

 ペトロがこの手紙で異邦人地域に住んでいるキリスト者たちに試練や迫害について述べていますが、それは彼らが迫害を受けてきたからです。使徒言行録にもキリスト者たちが迫害をされてきたことが書かれています。私達今を生きるキリスト者の共同体には彼らほどの試練、例えば命の危険があったりという試練、迫害はありません。少なくとも日本のキリスト者にはないでしょう。しかし、自分たちは人と違うという他人からのプレッシャーのようなものはあります。そして私達は自ら進んでキリスト者であることを私たちの周りの人々、例えば友人達に積極的には言いません。こういう状況、プレッシャーもまた試練と言えなくもないのです。ペトロはこのような私たちに呼びかけているのです。

しっかりしなさい、主イエスを見つめ、主イエスのように行動しなさい。適切な言葉で反論しなさい。あなたはキリストを着ているのです。

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