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「荒野の誘惑」

2022年3月6日 受難節第1主日

説教題:「荒野の誘惑」

聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 1章12-15節(61㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 何か物事を始めるにあたっては準備というものが必要です。例えば、今は3月ですが、4月になると入学、入社の時期ですので、大学に入学する学生達、就職し、新しく会社に入られる人々も引っ越しを始め様々な準備をしなければなりません。そして、彼らを迎え入れる大学の職員の方々、会社もそのための準備をしなければなりません。会社などで何かのプロジェクトを立ち上げなければならないとしましょう。そのプロジェクトのリーダーは当然ですが、それぞれ与えられた役割において準備をしなければなりません。私もこの教会に牧師として派遣される前に神学校に通い、卒業しました。そして、毎週の礼拝のために様々なことをしていますが、これらも準備であり、しなければいけないことです。

 さて、主イエス・キリストはこの地上で伝道をされましたが、その前にしなければいけないこと、つまり準備がありました。まず、1つ目の準備は洗礼を受けられることでした。これは本日の聖書箇所の前の部分、マルコによる福音書1章9節から11節に書かれています。私達も洗礼を受けることによって教会員になります。または、他の教会で洗礼を受けて別の教会に移り教会員になります。ですので、主イエスが福音伝道をなさる前に洗礼を受けることは当然でした。主イエスが洗礼を洗礼者ヨハネから受けられた時、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と書かれています。これは霊的、そして天的な現象です。つまり、主イエスはこの地上で伝道を始める前に「洗礼を受ける」という外的な準備と「聖霊が降り注がれる」、「天からの声を聞かれる」という霊的な準備をされたということです。


 しかし、主イエスがこの地上で伝道を始めるにあたって、それらの外的な準備、霊的な準備もしくは霊的な承認だけでは不十分だったのでしょう。ですから、本日の聖書箇所の荒野の誘惑を受けられたのだと考えられます。主イエスが誘惑を受けられたときの話はマルコでは非常に淡白です。主イエスが四十日間、その荒野におられたという事、サタンの誘惑を受けられたという事、野獣と一緒におられたという事、天使に仕えられていたという事だけです。マタイではより詳しく書かれているので、同じく読んでおいたほうが良いかもしれません。(マタイによる福音書4章1節から11節)

 しかし、本日の聖書箇所でわかることは主イエスがこの誘惑を受けられたことは父なる神の意図するところであったということです。12節にこのように書かれているからです。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」

ここに書かれている「“霊”」とは悪霊ではなく、文脈から判断すると10節の「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」に出てくる「“霊”」であることがわかります。ということは「神の霊」「聖霊」であるということがわかります。神は「愛する者」や「御自分が選ばれた者」を試すことがあります。

 

 それは聖書を紐解けばわかります。アブラハムは息子のイサクを殺して、犠牲の供物として捧げるよう神に要求されました。そして、彼は神の要求に従い、息子であるイサクを捧げようとした時、神はアブラハムの行為を止めました。そして神はアブラハムを祝福しました。神がアブラハムに要求したことはアブラハムにとって「患難」もしくは「試練」でした。そして、彼にとっての「誘惑」とは「神に逆らい、息子であるイサクを神に捧げないこと」でした。イスラエルの民はエジプトで奴隷状態であったのですが、神は彼らを救いました。しかし、神は彼らを約束の地に入らせる前に何度も試しました。しかし、彼らは何度も失敗しました。約束のカナンの地に入る前に砂漠で40年間過ごさなければならなくなり、彼らは死に絶え、彼らではなく、彼らの子孫がその約束の地に入ることができたのです。ヨブもまた神に試されました。もしくはこのように言ったほうが良いかもしれません。神がサタンにヨブを苛む(さいなむ)ことを許しました。ヨブは財産、健康、家族や友人との良き人間関係を奪われました。しかし、ヨブは神を呪うことはしませんでした。彼にとって「患難」とは「財産、健康、家族や友人との良き人間関係を奪われること」であり、誘惑とは「神を呪うこと」であったわけです。しばしば、患難と誘惑は一緒にやってきます。神によるものを私達は「試み」と言います。ですから、私達は「主の祈り」の中でこう唱えるのです。「我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」と。ですが、私達がこの「試み」に遭わないことなどありえないのです。私達が「患難」「試練」「誘惑」に遭わないで一生を過ごすことなどありえないのです。


 神の御子である主イエスも地上での伝道を始める前に、この「試み」「試練」「誘惑」に遭われています。マルコによる福音書はその詳細について書かれていませんが、マタイによる福音書によるとそれらはとても普通の人には、なかなか抗し得ないものだと思いました。しかし、主イエスはこの「試み」「試練」「誘惑」に打ち勝ちました。皆さんは多分「神の御子である主イエスだから出来ることであって、私達には出来ない」と思われるかもしれません。ですが、私達の中に御言葉が生き、聖霊が働いていれば、それらにとらわれないことが出来ると思います。そして、もしとらわれたとしても、救われると思うのです。主イエスは福音伝道の前にこの事を経験しました。しかし、私達は生きている限り、この事を経験し続けます。つまり、「試み」「試練」「誘惑」は一生ついてまわるのです。ですが、私達は自分の力でこれらに対抗しようとしても駄目なのです。私達は弱いのです。ですが、私達は「主にあって」強いのです。ですから、主により頼みましょう。

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