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「荒野の誘惑」

2023年2月26日 受難節第1主日

説教題:「荒野の誘惑」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 4章1節-11節(4㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は受難節の第一主日礼拝です。つまり受難節に入ってから最初の主日(日曜日)ということです。受難節というのは主イエスがこの地上にお生まれになり、福音宣教をなさり、最終的に私達の罪の贖いのために十字架にお掛かりになられるというご受難を私達が想起する期間なのです。この受難節が始まったのが22日の水曜日で4月6日の木曜日に終わります。そして4月9日の主日、日曜日がイースター、主イエスのご復活日となるわけです。この受難節が始まった22日の水曜日は灰の水曜日、英語で言えばAsh Wednesday と呼ばれています。カトリック教会では信徒の方々の頭に灰をかけたり、額に灰もしくは墨のマークをつけたりします。 

なぜかといいますと、ユダヤ社会では人々は悔い改めを表すために自分の着ている服を裂くのと同様に灰をかぶるということをよくしていたのです。旧約聖書の記述でよく出てきています。

私はアメリカの神学校に一時期に留学しており、そこはカトリックではなく、プロテスタントの神学校だったのですが、この灰の水曜日にチャペルに出席しておりました。そこで額に炭というか灰のマークをつけてもらいました。ですから、この灰の水曜日が来ると、この事を思い出してしまうのですね。

 さてこの受難節の第一主日礼拝に主イエスがサタンによる誘惑に遭われた聖書個所を説教するのは意義深いことかなと思うのです。なぜなら、このサタンによる誘惑とはサタンに試される、試練に遭わされるということであり、受難ということだからです。

さて主イエスがこの悪魔の誘惑を受けることはこの地上で伝道をするために通らなければいけない道であったと考えます。主イエスはこの前に洗礼者ヨハネによって洗礼をお受けになられたのですが、その時に天が開け神の霊が鳩のようにご自身のところに降って来ました。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたということです。これは本日の聖書個所の前、マタイによる福音書3章16節から17節に書かれていますし、この主イエスの洗礼をもう少し詳しく、全体的にお知りになられたい方はマタイによる福音書3章13節から17節をお読みになられたらよいでしょう。


 この洗礼と本日の悪魔による誘惑は主イエスがこの地上で伝道をするにあたって通らなければならない道でした。私達は通常この事を通過儀礼、イニシエーションと言いますが、人生の節目、節目で行われていますね。目的は新しい環境に慣れさせる事です。もしくは人を新しい役割に「生まれ変わらせる」ということでもあるのです。「生まれ変わらせる」「生まれ変わる」という言葉は聖書でも馴染みがある言葉です。新生です。主イエスがニコデモという人と会話をする場面を覚えておられるかと思います。主イエスは彼にこのように仰いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(ヨハネによる福音書3章3節)

とするならば、神の御子主イエスであってもこの通過儀礼を通って新たに生まれなければならなかったということになります。これは実に興味深い事です。

 

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」

(マタイによる福音書4章1節)

悪魔からの誘惑という試練、テストを受けるために荒れ野に主イエスは行かれたわけですが、これは主イエスご自身が勝手に行かれたわけではなく、“霊”に導かれたわけですね。

この霊とは何か?悪霊でしょうか?そうではなく、神の霊、聖霊ですね。悪魔と聖霊がなぜ関係があるのかと疑問に思われるかもしれません。しかし、この主イエスが受けられる悪魔からの誘惑は神によるテストであり、通過儀礼なのです。いわば、これも神の管理下で行われたのです。ヨブの試練を思い出してください。ヨブは悪魔によって責めさいなまれますが、悪魔は常に神からの許可を得ていました。ですから主イエスがお受けになられる悪魔による誘惑もまた神の管理下にあったと考えられます。

そして主イエスは四十日間、昼も夜も断食をされ、空腹を覚えられた、飢えられたということです。よく人間が生きていく上で必要な物として、衣食住、着る物、食べる物、住む場所という事が挙げられます。「衣食住足りて礼節を知る」という諺(ことわざ)もあるくらいです。これは「着るものや食べるものが十分にあって、初めて人は礼儀や節度をわきまえるようになる」ということです。

「生活に余裕がないと精神的にも余裕は生まれない」ということでもありますね。実際に生活が苦しい家庭というのは家庭内がギスギスして、家庭内暴力、例えば子供への虐待などが起こりやすいと考えられます。

もちろん必ずというわけではないのですが。

この衣食住の中で一番大切な物が食だと思うのです。人間食べなければ死んでしまうからです。この主イエスの断食の四十日間というのはモーセが山で神と出会い、そこに四十日間断食をしつつとどまった事(出エジプト記34章28節)そしてエリヤが追手を逃れ神の山ホレブにたどり着くのに四十日間かかった事(列王記上19章8節)にならっています。

 主イエスの四十日間の断食に話を戻しますと、これが本当に大変だと考えます。もしこの食が抜かされたら、礼節なんてあったもんじゃないということですね。獣のようになったとしても不思議じゃないのです。そんな中で誘惑する者が来て主イエスに「神の子なら石をパンにしてみたらどうか。」と言ってくるわけです。

この荒野での誘惑の前に主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その時に聖霊が主イエスに降り、天から「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたということはお話しました。これは主イエスが神の御子だということです。

これを踏まえた上のこの試みる者の理屈はこうです。「お前は神の御子なんだろ、だったらその事を奇跡によって証明してみせろ。それが出来ないという事はお前は神の御子ではないんだな。」ということです。いかにも悪魔らしい狡猾な理屈です。しかも主イエスは飢えられているのです。この2重の罠に対して主イエスは申命記8章3節の言葉を使って反撃しました。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

(マタイによる福音書4章4節)

 主イエスは石をパンに変えることは出来たでしょう。しかしそれは神の御心ではないということを知っておりました。だからしなかったのです。ここで思い出していただきたいのは創世記でアダムとイブが蛇の狡猾さにだまされ、禁断の実を食べてしまったこととエジプトを脱出し、飢え乾いたイスラエルの民が水と食べ物を求めて神に不平を言ったことです。このイスラエルの民が経験した乾きと飢えについてですが、申命記8章2節から5節までを読んだほうが神の意図がわかると思います。つまり、神がイスラエルの民を飢え、渇かせたのは彼らの心に何があるのか、神の戒めを守るかどうかを確かめるためであり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」ことを彼らに分からせるためなのだという事が書かれています。

そういう事が分かっていたからこそ主イエスは石をパンに変える力があっても変えなかった。父なる神の意図に従ったということです。


 この誘惑の後、主イエスはこの地上で弟子たちを集め、宣教し始めるのですが、その過程でも度々、人々から神の子であることを証明するために奇跡を見せることを要求されます。つまりこの悪魔の誘惑というものが人を通して続いているのですね。ですが、主イエスはこの誘惑をはねのけ、このような要求をする人々を非難するのです。

 それは奇跡が主イエスの個人的欲求や周りの人々の期待を満足させるために行われるものではなく、父なる神がしかるべき理由とタイミングでなされるものであるということを主イエスが分かっていたからです。だからこそ、主イエスはそのように奇跡を行われたのです。これは主イエスが逮捕された時、十字架に架けられた時に当てはまります。主イエスが逮捕されようとした時、ペトロが主イエスを逮捕しようとした大祭司の手下に切りかかり、彼の片耳を切り落としました。しかし、主イエスはペトロを咎(とが)め、このように仰った。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイによる福音書26章52節から54節)


 つまり、主イエスは父なる神を通してこの危機的状況を回避する奇跡を起こすことが出来たわけです。石をパンに変えることが出来たのと同じ様に。ですがそうはなさらなかった。それは主イエスがご自分よりも父なる神のご計画、十字架にお掛かりになられ、私達の罪の贖いをなさることを優先されたからです。そして、いざ主イエスが十字架にお掛かりになられた時、人々は様々な事を言い、嘲笑しました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

(マタイによる福音書27章42節から43節)

これもまた一つの誘惑ですね。先程の逮捕の時と同じです。主イエスがご自身のために父なる神を通じて奇跡を起こすことも出来たはずです。ですがそうすると父なる神のご計画がだいなしになってしまいます。だからこそ、主イエスはなさらなかったのです。さらに言うならば、悪魔の誘惑は荒野だけで終わらなかったわけです。それはこの荒野の誘惑という通過儀礼を終えて後も主イエスを襲い、それは主イエスが十字架にお掛かりになられて、死なれるまで続いていたわけです。しかし主イエスは最後まで戦い抜き、勝利されたのです。そのおかげで今の私達があるのです。主に感謝します。

 さて、荒野の誘惑の場面に戻りますが、悪魔は主イエスを聖なる都に連れていきます。この聖なる都というのはエルサレムのことです。そして悪魔は次のように主イエスに言うのです。

「神の子なら飛び降りたらどうだ。」と。理由としては「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える」ということですね。6節に書かれています。これは詩篇91章11節から12節の引用なのです。悪魔が聖書を引用しているのですね。なんともはやと言いたいのですが、悪魔が聖書をこのように引用したのはこの前の誘惑の時、主イエスが空腹時に、「石をパンに変えてみたらどうだ」と悪魔が主イエスを誘惑した時、主イエスが聖句をもってこの誘惑を撃退しました。なので、悪魔もまた聖句を引用したわけです。「あなたは神の子ですよね。そうであれば聖書にかかれている言葉に従いますよね」ということです。しかし、主イエスは別の聖句を用いてこれを退けます。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」と主イエスは仰いました。この2番目の悪魔の誘惑で分かることは二つあります。一つは聖書を引用する悪魔の狡猾(こうかつ)さですね。もう一つは聖書は慎重に、総合的に読まなければならないということです。でないと一つの聖書個所で物事を決めてしまい、それが結果的に間違った行動になってしまうということです。そして一つの聖書個所ですら複数の解釈があります。ですから、祈り、聖書を深く学び、総合的に判断しなければなりません。そのためには聖霊の助けも必要です。世の中には聖書を自分たちの都合よく解釈し、その方向に人々を誘導する方々がおります。だから気をつけないといけないのです。


 最後の悪魔の誘惑は主イエスにこの世の富をすべて見せ、もしこの悪魔を拝むなら、これらを与えるというものでした。これは人の欲に訴えかけるものでした。お金持ちになりたい、この世の富を独占したいというのは誰しもが持っているものです。以前からそうなのですが、特に最近では裕福であることが人々に評価されます。どこに住んでいるのか?どんな服を身につけているのか?車は持っているか?貯金はどれくらいか?年収はいくらか?職業は何をしているか?等などあげればきりがありません。そして私達はそのような考え方に染まっているのです。しばしば聖書でこの世は悪であると言われているのはこのせいです。ですから、この悪魔の誘惑に私達はなかなか抗いきれないのです。しかし、主イエスは御言葉をもってこの悪魔の誘惑を退けたのです。


 私達の周りには誘惑、試練といったものが存在します。聖書を読んでみてもそれがわかります。例えば、先週のアブラハムのイサクを犠牲に献げること、ヨブの試練、金持ちの青年の話、そして主イエスが遭われた荒野の誘惑とその後十字架での死まで続く試練と誘惑です。果たして私達はアブラハムのように自分の息子を神に献げなさいと言われて献げられるだろうか?ヨブのように試練にあった時に神を呪わずにいられるだろうか?金持ちの青年のように(私はそれほどお金を持っていませんが、莫大な財産を持っていたとして)全財産を差し出し、主に従いなさいと主に言われた時、結局差し出すことが出来ないんじゃないか?そしてなによりも主イエスのように十字架の死にいたるまで試練と誘惑に打ち勝つことができるだろうか?と思うわけです。これらの聖書の試練と誘惑の話というのは今を生きる私達にも相通じるものだということを知って改めて驚いています。

私達に出来ることはひたすら主を信じ、信仰に生きることでしかないと考えます。そして私達が他の一般の方々より有利なこと、一般の方々を差別しているわけではないのですが、私達がキリスト者であるということです。つまり、主イエス・キリストを私達の罪を贖われた救い主として受け入れ、信仰に立ち、聖書に親しみ、祈りつつ歩んでいるということです。つまりそういう規範に立っているということです。もちろん、キリスト者でない方も法律やその人なりの道徳や信条といったものに立って人生を歩まれていると思います。しかし、私達はこの主イエス・キリストという岩に立っているのです。この多様性が尊重される時代には特にこの事が重要なのです。最後に主イエスが語られたこの言葉を申し上げます。

「…あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

(ヨハネ16章33節)

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