「荒野の誘惑」
2024年1月14日 公現後第2主日
説教題:「荒野の誘惑」
聖書 : ルカによる福音書 4章1節-13節(107㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は公現後第2主日礼拝です。先週私は公現についてお話ししましたが、少し訂正があります。先週申し上げたようにキリストの公現はバプテスマのヨハネに洗礼を受けられたという意味あいだったそうです。ですが、キリストが誕生なされ、東方の三人の博士もしくは賢者が誕生されたキリストを訪問するという意味に変わったという事です。東方の三人の博士は異邦人、しかも多分ゾロアスター教を信じている異教徒であったろうと言われています。異教徒で異邦人の三人の博士が主イエス・キリストを拝むためにベツレヘムに来たということが重要であるという事です。この事を表すのは主イエスの公現という事です。その公現日が1月6日(土)で7日(日)は公現後の第一主日というわけです。ですが、主イエスの洗礼の意味が全く失われてしまったかというとそうでもないと私は考えるのです。というのはこの公現後第1主日礼拝の説教箇所ではよく主イエスの洗礼の箇所が用いられるからです。多分、この東方の三人の博士の来訪はクリスマスと結び付けられているので、クリスマス礼拝、もしくはアドベントの礼拝で用いられているのだろうと思うのです。
さて本日の聖書箇所です。主イエスのこの地上での伝道を始めるためには準備が必要であるということは先週申し上げました。まずは洗礼を受けることです。それはバプテスマのヨハネから受け、その証拠となる聖霊が降り、天からの御声が聞かれたことで明らかです。
ですが、まだ準備が必要だということです。それが悪魔からの試みいわばテストです。皆さんはどうかわかりませんが、テストというとあまりいい感じはしません。学校での中間・期末テスト、高校、大学での入学試験、大学での授業の試験、会社に入るための入社試験、面接などなどです。これは言っていいかどうかわかりませんが、牧師にも試験があります。私は神学校を卒業し、牧師として教会に派遣されているのですが、伝道師という資格で奉仕をしているのです。ですから、1年間の伝道活動のレポートを教団に提出し、面接を受けなければなりません。これもまたテストですね。按手礼というものを受ければ、長老になり、そういうことをする必要はなくなるのですが、そのためにはまず教団からのお誘い、つまり按手礼を受けるための準備をした方がいいのではないかという申し出が来なければなりません。そして何か一つのテーマを選択し、その事についての論文を書き、その論文の評価と面接によって按手礼を受けられるかどうかが決まります。そして按手を受け、長老となるのです。これもまたテストですね。なんというか人生はテストと言っても過言ではないですね。
さて、私たちが受けてきたテストとは違いますが、私たちの主イエスもまたテストをお受けになられました。私たちの場合、状況によって特別扱いをされて、テストを免除されるということがありますが、主イエスは神の御子だからといってテストを免除されるということはありませんでした。もっとも主イエスが父なる神の元から私たちのところに降ってこられたのは究極的には十字架の上で罪の贖いをするためなのですが、人としての痛みを十字架以前にも負うためであったのですから、当然といえば当然なのですが。
さて本日の最初の箇所1節では「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と書かれています。「聖霊に満ちて」というのは前章の22節で主イエスが洗礼を受けられた時に降ってきた聖霊です。そして「荒れ野の中を霊によって引き回され」とありますからこの「霊」もまた文脈上聖霊と見るべきでしょう。つまり主イエスがこの荒れ野に導かれたのは父なる神のご意志であった、つまり悪魔から試みられるのは父なる神のご意志であったということです。
次に2節での四十日間の断食が出てきます。荒れ野での40日間の絶食というのはイスラエルの民が四十年間荒れ野で彷徨うことと比較できます。イスラエルの民が四十年間荒れ野を彷徨った理由、すぐに約束の地カナンに入る事が出来なかった理由は彼らが食べ物がない、飲むものがない、リーダーシップがモーセ、アロン、ミリアムにだけあるのはおかしい、偶像礼拝など神に逆らい続けたからです。また主イエスのこの荒れ野での四十日間過ごすことはエリヤがアハブ王の嫁イザベルから殺されるのを免れるために荒れ野に逃れ、ホレブ山を目指したのとも比較できます。その時は神が食事を彼に与えたのですが。
さて、主イエスは悪魔から誘惑をされますが、最初の誘惑が石にパンになるよう命じたらどうだというものでした。この悪魔の誘惑には二つのポイントがあります。一つは当然のことながら空腹感を満たすことです。もう一つは神の御子としてのプライドを満足させることです。神の御子だから奇跡を行なえて当然であるというプライドです。この悪魔の誘惑に主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。」という申命記の8章3節の言葉を引用して、打ち勝ちます。
「人はパンだけで生きるものではない。」というのは省略していますので、もう少し引用しますと「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ですね。申命記8章1節から10節を読んでみますと、この神の試みの意味がよりよくお分かりになるかと思います。
次の悪魔からの誘惑はルカによる福音書5節から7節にかけて書かれていますが、もし悪魔を拝むなら、お金、名誉、権力を与えるというものです。金持ちの青年の話を思い出させますね。つまりこの世で大切だと思われているものです。もしくはこの世そのものと言ってもいいです。神かこの世かどちらを選びますかということです。しかし、これも主イエスは御言葉を用いて悪魔を撃退します。いわく「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
最後に悪魔は飛び降りてみろと主イエスに言います。なぜなら、神は御子を助けるからだというのです。聖書に書いてあるからということです。聖書に書いてあることを実践して何が悪いということです。
ですが、主イエスは神を試してはいけないという御言葉で悪魔を退けました。これは主イエスが神の御子であるかどうかという主イエスの存在意義に対する挑戦であり、誘惑でした。しかし、この誘惑を主イエスは見事に退けたのです。
さて、私たちはどうでしょうか?このテストにパスできるでしょうか?飢えている時に食べ物を与えるけれども主を裏切れと言われてそれに応じることが出来るでしょうか?
この世で富や名声、権力を得られる機会が与えられたとしてそれが神に反するやり方であったとしたらそれをしないでいられるでしょうか?
神が自分を愛していることを確かめるために神の御心に反して、神を試すようなことをしてはいないでしょうか?
私たちは常に試されています。最後の13節で悪魔は時が来るまでイエスから離れたと書かれています。つまりまた来るということです。神の御子主イエスにすらそうなのです。具体的にはマタイ16章22節から23節に書かれている場面です。この場面では主イエスがご自身が殺され、三日目に復活することを宣言されたのに、その事をペトロは仰らない方が良いと諫言するのですが、それは神のご計画を無にするという事です。ですから、ペトロの諫言も悪魔の誘惑という事になります。この場面以外にも主イエスは捕らえられ十字架にかけられる前に何度も律法学者、ファリサイ人たちに殺されかけています。これも悪魔の成せる技です。そしてイスカリオテのユダが裏切り、逮捕されるということも悪魔の仕業であるということは確かなことです。もちろん、主イエスの十字架での罪の贖いと復活が神のご計画であったとしても主イエスを裏切る、逮捕する、拷問する、殺すということは罪であり、それらを行うことは悪魔の所業であるということは確実なのです。ユダが裏切る場面でこういう表現がありました。
「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」
(ルカによる福音書22章1節から4節)
「ユダの中にサタンが入った」ということはこの裏切りもまた悪魔の行為だということです。ペトロも主イエスを裏切らないと言ったが、結局裏切ってしまいました。
私たちは常に試されています。神からも悪魔からも。この試しの中で私達はどうしたら良いのでしょうか?聖霊に導かれて信仰に歩むことができるよう祈るしかないではないですか。私達自身は弱いのです。ですが、私達は主にあって強いのですから。
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