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「裁きの日」

  • urawa-church
  • 2023年10月22日
  • 読了時間: 9分

2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日 

説教題:「裁きの日」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 17章20節-37節(143㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 ウクライナとロシアの戦争が始まってからだいぶ経ちました。私達はその戦争で多くのウクライナの民間人が犠牲となり、傷つき、亡くなられたことを知っています。彼らは家を失い、周辺諸国に逃れ、また周辺諸国以外の国々、私達の国、日本にも来られていることも知っています。この戦争が早く終わるよう私達は今日も祈りを捧げました。早く平和が来るように祈りを捧げました。


 しかし、またしても残念な事が起こりました。それはパレスチナとイスラエルの間の戦争です。元々ここではずっと戦争と一時的な停戦が繰り返されて来ました。今回はパレスチナの一組織であるハマスがイスラエルに攻撃を加え、ユダヤ人そして外国人を人質として連れ去ったということです。そしてイスラエルはこれに応戦し、ハマスそしてハマスの拠点があるガザ地区を攻撃するということで戦争状態に突入しました。先程申し上げたようにこの地域ではずっとこのような戦争状態と停戦状態が何十年にもわたって続いています。ですが、今回はいままでとは違ったものになるのではないか、つまりより激しい、より大規模な戦争になるのではないかという事をこの地域に以前住んでいらして、この地域に詳しい私の知り合いの方が仰っていました。


 確かにこのハマスが行った行為はテロ行為であり、当然非難されるべきものです。そしてイスラエルが自分たちを守るために、また人質を救出するために攻撃をしなければならないということも理解できます。しかし、このガザ地区には多くのパレスチナの民間人が住んでいます。イスラエルは24時間の猶予を与え、彼らに避難するよう勧告しましたが、いったい24時間で避難できるでしょうか?そもそもパレスチナ人たちはガザ地区に住んでいますから、どこに避難すればよいのでしょうか?そういうことを置き去りにしてイスラエルによる攻撃は続いていきます。またガザ地区のパレスチナ人はイスラエルによって様々な迫害を受けてきたと聞きます。壁を作られ、砲撃を加えられ、兵士による迫害を受けてきたということです。もちろん、これを理由に今回のハマスの行動を正当化することは出来ませんが、こういうことも私達は認識すべきだと思います。さてウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルとの戦争と私達の世界は2つの戦争を抱えることになってしまったのですが、私達はどうしたらよいのでしょうか?


 本日の聖書箇所に入っていきたいと思います。20節の最初の部分でファリサイ派の人々が主イエスに尋ねたんです。神の国はいつ来るのかと。ここで彼らが考えていた神の国とはどういうものでしょうか?具体的にいいますと、旧約聖書でダビデ王が支配していた時のイスラエルということになるのでしょうか。厳密に言えば、ダビデ王がイスラエルの王であった時代も戦争があったのですが、ダビデ王がイスラエルを安定して統治していた時代はイスラエルは平和でした。


 続くソロモン王の時代は最初は良かったのですが、後にかの王は主に逆らい、他の神々を礼拝したので、主は彼の子の時代に国を分裂させます。イスラエル王国とユダ王国です。そしてイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、ユダ王国の人々はバビロンに捕囚として連れてこられました。

バビロン捕囚です。やがてバビロンがペルシャによって滅ぼされ、捕囚としてバビロンに連れてこられた人々がペルシャの王によって帰還を許可されました。しかし、時は流れて、新約聖書時代に入りますとこの帰還したユダヤ人達の住む地域はローマ帝国によって支配されてしまいます。ファリサイ派の人々は神が再び立ち上がり、このローマ帝国の支配を退け、またあの栄光に満ちたイスラエル王国を復活させ、ユダヤ人が自由に平和に暮らすことが出来ることを期待していました。だから彼らはこの様な質問を主イエスに投げかけたのです。

 ですが、彼らの質問に対する答えはそっけないものでした。期待外れのものでした。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(20節後半部分から21節)

この主イエスのお答えに対して彼らは失望したに違いありません。

彼らは現実にローマの支配を脱したかったからです。もしくは主イエスが何を仰っているのか理解できなかったかもしれません。

いずれにしろ、彼らが理解したことは彼らの望んでいることを主イエスは叶えてくれないということでした。

 主イエスがここで仰っていることはどういうことでしょうか?

「神の国は、見える形では来ない。」とは人々の心の部分、もっと言うならば霊的な部分です。

主イエスを信じる「信仰」がまず挙げられますね。もう何度か私はこれまでの説教でこの箇所を取り上げてきたのですが、ヘブライ人への手紙でもよく分かるかと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ人への手紙11章1節から3節)

パウロはまたIコリントの信徒への手紙13章で愛について語っています。その中の13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と語っています。「信仰、希望、愛」どれも目には見えませんよね。もっともそれらに基づく行動によって私達は知ることが出来るのですが。

また、主イエスが律法でいちばん大切な掟は何かと問われて何とお答えになられたでしょうか?

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

(マルコによる福音書12章30節)これが第一の掟です。

主イエスは第二の掟としてこれを取り上げました。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

(マルコによる福音書12章31節)

ヨハネによる福音書15章12節でも主イエスはこう言っています。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

先程も申し上げたように、信仰、希望、そして愛に満たされることが、神の国がその人に来ているということでしょう。


 また、本日の聖書箇所の「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とはどういうことでしょうか?それは主イエスが今ここにいることが神の国が来ていることではないでしょうか?ファリサイ派の人たちにとってはそれは受け入れがたいものでしょう。なぜならそれは主イエスを神とすることであり、自らを神とすることを固く禁じていたからです。事実、それで何度も主イエスを石打で殺そうとしたり、実際、裁判でも主イエスが自分が神の御子であると証言した結果、十字架につけられるわけです。

マルコによる福音書14章61節から62節ですね。

ですが、私達は主イエスが神の御子であることを信じています。

これまで私は神の国の到来を私達の一人一人の心の部分、霊の部分で捉えて話してきました。


 しかし、神の国の到来を別の面から語っているのが22節からです。これは主イエスの再臨の事を語っています。22節の後半部で「しかし、見ることはできないだろう。」と主イエスは仰っているのですが、これは弟子たちが生きているうちには再臨がないことを意味しています。もちろん、私達もまだ見ていないのですが。

23節でキリスト者を惑わす者が出てくるから注意するようにとの警告がなされます。再臨の状況が24節、26節から30節で語られます。25節では主イエスの十字架でのお苦しみが語られます。

そして27節から35節が裁きの日もしくは選びの日の事が語られていますね。つまり、神の国の到来がキリストの再臨と裁きの日、選びの日という面を持っているということです。

 その中で救われる条件として面白い一文があります。

「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(33節)

なにか難しいですね。謎々やトンチの文言です。これは何も自殺を推奨しているわけではありません。そうではなく、主の御旨を一番大切にしなさいということです。

この33節の前の箇所にその事が書かれていますね。

「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」(27節)

「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」(28節から29節)

ここで言われているのはやはりこの地上での楽しみに執着したために滅んでしまったということですね。もちろん、私は何も皆さんに食べたり、飲んだりするなと言っているのではありません。ですが、最も大切なことを忘れてはいけないということを言っているのです。

さらに、主イエスの言葉は続きます。31節、32節ですね。

31節では家財道具を気にして、自分の命を落とすな、畑にいるものも帰ってはいけないと注意されていますね。家財道具や家というのは大事ですが、それより大切なものは命なんですね。よく台風が来ていて、自分の畑を見に行く人がいらっしゃるのですが、心配なのはわかるのですが、ご自身の命を大切にしていただきたいものです。32節ではソドムを主が破壊する時にロト、妻、二人の娘を救う話です。ロトはソドムを破壊すると宣言する主に対してソドムの 近くの町に逃れさせてほしいと願います。主はそれを受け入れ、ロトと彼の家族はそこに避難するのですが、彼の妻だけは破壊されるソドムを見て塩の柱にされてしまいました。聖書には理由が書かれていませんが、おそらく彼の妻はソドムに対して未練といいますか、そのような感情を持っていたのだと思います。ですが、最も大切なことは自分たちの命ですね。

 ここまで見てきますと、神の国とはまず自分たちの中にあるということです。それは主イエス・キリストの臨在を私達が感じられるかどうかということです。私達が主イエスと繋がっているかどうかということです。ちょうど葡萄の幹に枝がつながっているように。

主イエスが十字架の上で私達の罪の贖いをし、三日目に復活し、神の御子として栄光を受けられたということを認めることです。そして私達自身が変えられ、信仰、希望、そして愛を持つことです。

 さらに言うならば、主イエスの再臨に備えることです。その備えとは主の御旨を第一と考えることです。この地上の事に囚われてしまうと私達の救いがなくなってしまうということです。34節、35節には連れて行かれる者と残される者が分かれています。私達はどちらになるのでしょうか?

 
 
 

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