「見ないで信じる」
2021年4月4日 イースター礼拝
説教題:「見ないで信じる」
聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書20章24-29節(210㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
イースターおめでとうございます。主は死に勝利し、復活されました。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのですか」という苦痛を伴った叫びを十字架で上げられ、亡くなられた主イエスを父なる神は黄泉に捨てておかず、復活させたのです。父なる神に感謝します。しかし、死者の復活と聞くと、何か受け入れ難いものがあるのも事実です。社会において物事を判断するのに、事実、客観性、常識、理性が求められているからです。私達キリスト者にとって主イエスの復活は受け入れられる事ですが、キリスト者以外にとっては主イエスの復活、死者の復活は受け入れ難い事なのです。
事実、主イエスに親しい人達も彼の復活を初めは理解しなかったり、疑ったりしました。ヨハネによる福音書20章1節から10節にかかれているのですが、マグダラのマリアが主イエスの墓に行き、墓石が取りのけられ、主イエスの体がないことを見つけました。彼女はペトロともう一人の弟子にその事を知らせに行き、彼らもまた主イエスの墓に行くのですが、彼らが墓の中で見つけた物は主イエスの頭を包んでいた亜麻布で、主イエスの体はありませんでした。マグダラのマリア、ペトロ、そしてもう一人の弟子たちの頭の中にあった事は何でしょうか?誰かが主イエスの体を盗んだということではないでしょうか?この時点で彼らの頭の中には主イエスの復活という事はないのです。ペトロともう一人の弟子は主イエスが復活することになっているという聖書の言葉を理解してなかったと9節にあります。事実、彼らは家に帰って行ったと続く10節にあります。彼らの心はいかばかりであったでしょうか?自分の師であり、希望であった主イエスが十字架の上で殺され、体まで盗まれたのです。彼らはさらなる悲嘆を抱えて家に帰ったことでしょう。しかし、これは彼らの無理解から来たことです。
マリアはどうでしょうか?マリアもまた弟子たちと同じく主 イエスの体が誰かに盗まれてしまったと考え、主イエスの復活の事を考えることが出来なかったと思います。彼女もまた他の弟子たちと同じく主イエスの復活の事を語った聖書の言葉を理解していなかったからです。だから、墓の外で泣いていたのです。ヨハネによる福音書20章11節にあります。しかし、彼女は復活された主イエスと会い、主イエスの復活と主イエスが彼女に伝えたことを弟子たちに伝えました。16節から18節に書かれています。彼女の悲しみは喜びに変わったことでしょう。そして、重要なことは彼女が主イエスと会い、主イエスの復活を確信し、その後弟子たちにその事を知らせに行ったということです。つまり、彼女は「見て信じた」のです。では、弟子たちは彼女の言うことを聞いて信じたでしょうか?ヨハネによる福音書にはその事が詳しく書かれていませんが、他の福音書にはその事を暗示させる箇所があります。例えば、マルコによる福音書16章14節にはこう書かれています。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」つまり、復活された主イエスを見た人々はマグダラのマリア以外にもいて、彼らも主イエスの復活の事を弟子たちに知らせたにも関わらず、11人の弟子たちは信じなかったことがこの節からわかります。つまり、彼らは聞いても信じなかったのです。ヨハネによる福音書20章19節から23節にも主イエスが弟子たちの前に現れる場面があります。主イエスが彼らの前に現れる前、彼らはユダヤ人たちを恐れ、家の戸の鍵をかけていたとあります。彼らは主イエスに従っていたのですが、彼らの師である主イエスはユダヤ人の手によって殺され、いつ、自分たちも見つかり、殺されるかもしれないという恐怖に囚われていたからです。主イエスが捕らわれた時、ペトロが主イエスの弟子ではないかと言われました。その時、ペトロは三度その事を否定しました。彼もまた、この恐怖に囚われていたのです。そういった恐怖に囚われた弟子たちの真ん中に主イエスが現れたのです。弟子たちは喜びました。しかし、彼らもまた主イエスを見て信じたのです。主イエスの事を聞いて信じたのではないのです。もちろん、死者の復活という事はこの世の常識から外れていますし、主イエスが殺されたという絶望感、いつ自分たちも捕らえられ、殺されるかもしれないという恐怖感を弟子たちが持っていたということも理解できます。しかし、彼らは見て信じたのです。
そして、本日の聖書箇所に出てくるディディモと呼ばれるトマスという弟子です。彼は主イエスが弟子たちの前に現れた時にいなかったのですが、この「見て信じる」弟子の最たる人でした。つまり、疑り深い人で、主イエスが現れた時にいた弟子たちから「主イエスを見た」ということを聞いても信じない人でした。彼はこう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とまで言った人物です。(ヨハネによる福音書20章25節)しかし、今度はこのトマスがいた時、主イエスが現れ、トマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)と言われました。そして、29節で主イエスはトマスにこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この「見ないで信じる」ということに私達の信仰の真髄があると思うのです。そして、この「見ないで信じる」という信仰を得るためには時として、この世の常識とか理性とは妨げになるのです。もちろん、私は常識、理性、客観性といった物を否定しませんし、それらを判断材料に使うことを悪いとは思いません。人々がそれらを持っていなければ、健康な社会生活が成り立ちません。もし、私達がそれらを持っていなければ、人に騙されるもしくはマインドコントロールされてしまうという危険性も存在するのです。私達はこれら常識、理性、客観性を持ちつつ、いかにこの「見ないで信じる」という信仰を持つことが出来るのでしょうか?それはやはり、祈り、聖霊に働いていただくしかないと考えます。聖霊に働いていただいて、確固たる確信を持つということです。祈りつつ、この事を求めていきましょう。
Comments