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「賜物とは何か?」

2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝

説教題:「賜物とは何か?」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 25章14-30節(49㌻)

        コリントの信徒への手紙一 12章21-27節(316㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 タラントンという言葉をご存知でしょうか?少し私達日本人には耳馴染みのない言葉かもしれません。ですが、タレントという言葉は聞かれたことがあると思います。日本では芸能人一般を指す言葉としてよく使われる言葉ですが、正しく言えば、才能などを意味する言葉です。タラントンはこのタレントの語源となった言葉で、水の重さを示す単位であったのですが、徐々に貨幣の単位になってきたということです。本日の聖書箇所では貨幣の単位として使われていると考えて良いでしょう。


 ある人が3人の僕にそれぞれ、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預け、旅に出ました。当然その人が僕達にこのお金を預けた理由はそのお金を有効活用し、それを増やす事を期待したからだと推察出来ます。当然主人は僕達と生活を共にしていますから彼らの性格や能力を把握していたことでしょう。そして、彼らの性格や能力に応じたタラントンをそれぞれに渡して、旅に出ました。そして、戻って彼らとお金の精算をしてみると、問題が発生しました。五タラントン渡された僕は商売をしてもう五タラントン儲けました。二タラントン渡された僕も商売をしてもう二タラントン儲けました。それぞれ主人から「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」というお褒(ほ)めの言葉を頂きました。しかし、一タラントンを主人から預かった僕は何もせず、それを地中に埋めてしまいました。さらに、この僕はこの主人の悪口ともとれる発言をしました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」とこの僕は主人に対して言ったのです。当然、利益を期待していたこの主人は、この僕の発言に対して怒り、この僕が持っていた一タラントンを僕から取り上げ、十タラントン(五タラントンで五タラントン稼ぎ十タラントン)を持っていた僕に与え、この一タラントンを地中に埋めていた僕を屋敷の外に叩き出しました。


 一読すると、なにかひどい話のように思えます。才能のある五タラントンを与えられた僕は五タラントンを稼ぎ、才能のない一タラントンを与えられた僕はその一タラントンさえ取り上げられ、屋敷の外に追い出されるのですから。まるで、現代の社会を彷彿とさせる気がします。お金を持っている人々はますます豊かになり、持っていない人間はますます貧しくなるということを肯定しているのではないかと私達に思わせるような話です。特に29節の「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」というこの主人の言葉はお金持ちにやさしく、貧しい人々に厳しい気がします。いままで、主イエスは比較的貧しい人々、社会から疎まれている人々に対して宣教してきました。主イエスの弟子たちもまた取税人や漁師といった社会から疎まれていた人々や貧しい人々でした。

そして、主イエスはお金持ちに厳しかったのです。皆さんはマタイによる福音書19章16節から24節に書かれている金持ちの青年、ルカによる福音書12章16節から21節に書かれている「金持ちが蔵に収まりきれないほどの作物を収穫したので、その蔵を壊し、さらに大きな蔵を作ってその収穫物や財産をしまい、食べて、飲んで楽しもうと思っていたのに、神にお前の命は今日取られると言われてしまった」話などをご存知かと思います。ですから、今回の聖書箇所では逆に五タラントンを元手に五タラントンを稼いだお金持ちを優遇し、この憐れな一タラントンしか持っていない人をさらにひどい目にあわせることを正しいとなさるのか、そしてそれを天の国の基準とするのか理解に苦しみます。


 私は初めこのタラントンをお金の単位の話、もしくはお金の話としましたが、これはお金の話ではないのです。ましてやお金持ち優遇というわけでもありません。皆さんもお気づきになられると思いますが、これは喩(たと)えです。私は最初このタラントンの事をタレント、才能の語源だといいましたが、ある意味今回はそれに近いと思います。もっと正確にいうならば、賜物です。主人は神と考えます。そして、僕は私達キリスト者達です。主人である神は僕である私達にタラントンという賜物をお与えになり、様々な奉仕をするよう言い渡します。五タラントン、二タラントンを与えられたキリスト者達は奉仕をし、成果をあげましたが、一タラントンを与えられたキリスト者は何も奉仕をせず何の成果も挙げませんでした。

だからこそ、神である主人はこの一タラントンを渡した僕に対して怒り、厳しい処置を下したのです。自分のためにお金を増やす、増やさないということではないのです。

成果主義とも違います。与えられた賜物が五タラントン、二タラントン、一タラントンであるとか、多い少ないとかは関係ないのです。上であるとか、下であるとかも関係ないのです。神から与えられた能力、賜物を神のために使わず、土の下に隠していたことが問題なのです。世間一般の評価からすれば、たいしたことはない、こんなこと賜物でもないし、私は才能なんて持っていないと思われているかもしれません。しかし、神の価値観は世の中の一般的な価値とは違います。ですから、その賜物を活かし、奉仕をすることは主が私達に望まれていることなのです。今、私達は月二回、第二と第四の木曜日に祈祷会でリック・ウォレン牧師が書かれた「人生を導く5つの目的」という本を学んでおります。この前学んだ箇所では私達キリスト者は神に仕えるために召されているという事を学びました。それは何も私のような牧師、宣教師だけでなく、信者もまたそうであると聖書に書かれていると彼は言うのです。私はこの浦和教会に来てから約1年半経ちました。そして、皆さん素晴らしい奉仕をしていただいております。しかも、いい意味でプライドを持ち、責任感を持ち、喜んでしていただいております。あの1タラントンを地中に埋めた僕はこの事を欠いていたのです。


 私は聖書を読むこと、祈ること、礼拝や祈祷会に出席することは教会生活そして信仰生活でとても重要な事だと言いました。しかし、自分自身の神様から与えられた賜物を知り、神様から与えられた奉仕をすることもまた大切です。私は両方をすることで、少しでも神の御心を知り、聖霊が働き、日々神と共に生きることができるのだと思うのです。 


 しかし、賜物を自覚し、奉仕をする上で新たな問題が起こる可能性があります。それは比較をするということです。本日の第二の聖書箇所はその事をパウロはコリントの信徒たちに指摘しているのではないかと思うのです。Iコリントの信徒への手紙12章21節「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」とあります。

つまり、違う賜物を持った人々の間で諍いや優劣をつける行為があったのではないかと考えられます。私はこの賜物を持っている。そして私が持っている賜物はあなたが持っている賜物より優れている。だから私のほうが偉いのだという類のものかもしれません。さらに進んで、あなたの賜物なんて賜物とは呼べない、私のもしくは私達の賜物はあなたの賜物より優れているのであなたはいらないというようなことを言ったりした人々がいたかもしれません。しかし、パウロがそうではないと言っています。そのような優劣をつけ、排除することは教会ではなく、神の御心にかなわないと考えたのです。パウロはその事をIコリントの信徒への手紙12章20-21節で語っているのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と26節に書かれているのですが、これこそ教会ではないでしょうか?つまり、お互いの賜物を尊重し合い、違いを理解し合い、神の与えられた奉仕を全うしていくことこそ神の御心であると確信しております。今後とも信者の方々と共にそのような教会として神の前に歩んでいきたいと祈っております。

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