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「賜物と誇り」

2020年11月15日 降誕前第6主日礼拝 

説教題:「賜物と誇り」

聖書 : 新約聖書 コリントの信徒への手紙一 1章27-29節(300㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


1章27節で、パウロは神の選びについて語り始めます。神は知恵ある者に恥をかかせるため、無学の者を選び、力ある者に恥をかかせるため、無力の者を選んだと書いてあります。次の28節にまいりますと、地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのですとあります。つまり、神の選びはこの世で尊敬されている人たち、例えば、学歴のある人、社会的地位のある人たち、お金を持っている人たちにはなく、社会的に弱い立場の人たちにあるということです。その理由は社会的に強い立場の人間に恥をかかせるもしくはその人を社会的弱者にするためということです。この考え方は当時のユダヤ社会の一般常識とかけ離れたものでした。当時のイスラエルはローマ帝国に支配され、さらに、その社会の中でヘロデ王やパリサイ派、サドカイ派などの宗教指導者が人びとを支配していました。社会的弱者に神の選びがあるという考え方は当時の一般社会の考え方と全くの正反対でした。しかし、この神の選びが社会的弱者にあるという考え方は旧約聖書、そして新約聖書を通じて示されております。例えば、旧約聖書における神のイスラエルの選びはどうでしょうか?神はイスラエルの父祖アブラハムの前に現れ、今住んでいる土地ハランを出発し、神が指し示す土地に行きなさいと言われました。アブラハムは神のその命令に従いハランを出発し、神はアブラハムを祝福し、その子孫の繁栄と領土の取得を約束しました。その約束はその息子イサク、その孫ヤコブ、モーセによる出エジプトとその後のイスラエルの民族の土地の取得へとつながっていきます。注目したいのは神のイスラエルの選びに対して述べている箇所です。旧約聖書の292ページ申命記7章6節から8節は神がイスラエルを選んだのは彼らが貧弱であったことと神の約束のためだと述べております。

新約聖書では神の選びはどう書かれているでしょうか?

マタイによる福音書9章10節から13節で主イエスは取税人や罪人と食事をしました。そして、マタイによる福音書6章19節〜21節では天に宝を積みなさいといわれました。さらに、24節では神と富と両方に仕えることは出来ないともいわれました。これまでの話からすると社会的に弱い人達が神様に選ばれ、救われると考えてしまいたくなります。そして、社会的に恵まれている人は神様に選ばれることもなく、救われないと考えてしまいます。

ですが、はたしてそうでしょうか?知識、社会的な地位、金銭そのものが罪なのでしょうか?私は違うと思います。もし、知識が罪と言うならば、礼拝に来て、説教を聞く、または聖書研究会に来て聖書を学ぶことも、罪と言うことになってしまいます。金銭は罪でしょうか?教会では献金は重要なことですし、パウロ自身も献金が重要であることはわかっていました。彼はコリントの信徒への手紙一の16章1節から4節(新約聖書323ページ)でコリントの教会に対して献金の適切な扱い方を指示しています。さらに、彼はローマの信徒への手紙15章の25節から27節(新約聖書296ページ)ではマケドニア州とアカイア州の人たちがエルサレムの聖なる人たちの中で貧しい人たちを援助するのは義務とまでいっております。パウロはマケドニア州とアカイア州の人たちはエルサレムの人たちに霊的なものをうけたのだから、物質的なもので返すべきであるといっております。さらに、彼自身、物質的援助を フィリピのティアティラ市出身リディアという女性からうけていました。金銭を持つことが罪であるならば、この女性は罪をおかしているのでしょうか?そうでは無いと思います。ではなにが悪いのでしょうか? 

本日の聖書箇所の最後の節コリントの信徒への手紙一1章29節をご覧いただきたいと思います。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためですと書いてあります。パウロがこの手紙を書いたコリントの教会に奢り、高ぶりがあった。そしてそれは神の前にあって正しくないことであり、パウロはその事を非難している。私は知識、力があること、金銭的に豊かであること、音楽などの才能があることは罪では無いと考えます。それらを主のために用いることは素晴らしいことです。それらを物質的な賜物、もしくは肉の賜物と呼びますが、問題はそれらを所有している人たちがそれらを悪い意味で誇ってしまい、他者を見下してしまうと言うことだと思います。そこに罪があります。

肉の賜物について述べましたので、霊の賜物について述べさせていただきます。コリントの信徒への手紙一13章1節から3節、新約聖書の317ページです。パウロは第1節では霊の賜物として異言、第2節では預言、完全なる信仰に言及していますが、もし愛が無ければそれらの霊的な賜物は無に等しいと言っています。どういう意味でしょうか?当時のコリントの教会では肉の賜物を自慢している人たちだけでなく、霊の賜物を自慢している人たちがいて、その賜物を持っていない人たちを見下していたということです。それもまた罪です。結果として教会の分裂を引き起こしていたと考えられます。はたして、それは主の前にあって正しいことなのでしょうか?パウロはそのような人たちを批判し、この手紙を書きました。では賜物そのものが悪いのでしょうか?そうではありません。神から来たものが悪いはずがありません。問題は肉の賜物を自慢している人たちと同じように人の心だと思います。奢りや他者への見下しにあると思います。そうだとするなら、私たちはどうしたら良いのでしょうか?その前に少し視点を変えて、パウロ自身の賜物や誇りに対する考え方について探ってみたいと思います。パウロは自分をパリサイ人であり、ローマ市民であると言いました。新約聖書258ページ使徒言行録の22章の3節でパウロはユダヤ人で律法をガマリエルという高名な教師の元で、学んできたと言っています。同じ22章の25節にはこういう場面があります。ローマの千人隊長が百人隊長にパウロを鞭で打つよう命じた時パウロが百人隊長にローマ市民である自分を裁判にもかけずに、鞭をうってよいのですか?と言っています。パウロはこれらの発言で自分を誇っているのでしょうか?パウロはコリントの会衆には誇ってはいけないと言っておきながら、自分は誇っているのでは無いか?彼の発言は矛盾しているいやもっというならば彼は偽善者ではないか?そのように考える人がおられるかもしれません。私は違うと思います。形の上では彼は誇っていますが、誇ることが目的で誇っているのでは無いと思います。この場面ではパウロがユダヤ人によって捕らえられ、ローマの兵隊に引き渡され、自分を非難するユダヤ人の前で、弁明を与えられる場面です。パウロは始めに、パリサイ人であり、高名なガマリエルに学んでいると述べました。つまり彼はあなた方ユダヤ人と同じであなた方が信じている律法を信じていると言っている。次に彼はそのあなた方と同じユダヤ人であり、パリサイ人である自分がイエス・キリストによって心が砕かれ、キリスト者になったと述べています。パウロが誇ったのは彼のキリスト者としての証のため、そして伝道のためであったのです。またローマ市民である者を裁判もかけずに鞭を打ってよいのかという彼の発言も理解できます。もし彼がそれを言わなければ、鞭を打たれて、怒っている群衆の中に投げ込まれ、殺されたかもしれない。

パウロは自分がローマ市民であるということを言うことによって、ローマの百人隊長、千人隊長が彼を守りました。そして、彼は発言の機会、伝道の機会を与えられました。いわば、彼は伝道のために自分の肉の賜物を誇ったのです。そしてそれは非難されることでも罪でも無く、コリントの会衆が肉の賜物を誇っていたこととは別です。

パウロはコリントの信徒への手紙一の9章19節から23節でこのように言っております。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになり、異邦人に対しては異邦人のようになった。それはユダヤ人と異邦人を得るためである。そして彼は福音のためならどんなことでもするとも言っております。だとするならば、彼がパリサイ人である、ローマ市民であると言うことを形の上で誇ることになんの問題があるでしょうか?

賜物には肉の賜物と霊の賜物があります。そしてどちらも、それら自体はよい物ではあり、適切に使う、主のご用のために使えば有益です。しかし、賜物はそれを持っている人が持っていない人に対しての見下しの罪を犯させる危険性があるということです。ではどのようにこの問題を解決したらよいでしょう?まず始めに私は賜物という言葉の意味を考えます。辞書には恩恵や祝福として与えられた物そして上位の物が下位のものに与えた物とあります。ということは肉の賜物であれ、霊の賜物であれ、それは上位の存在である神から下位の存在である私たちに恩恵として、祝福として与えられた物だと考えられます。たぶん、皆さんの中にはこれは私たちの努力の結果として得られた物だとお考えの方もいらっしゃるでしょう。わたしは皆さんの努力を否定するつもりはありませんが、それが誇りという罪につながるかもしれません。賜物を神から祝福として自分に与えられた物と考えることによってこの誇りの罪を逃れられると思います。もう一つの解決法は高ぶりを抑制するものすなわちとげをさがすということです。コリントの信徒への手紙二の12章の1節から7節までにそのことが書かれています。2節から4節まででパウロはキリストに結ばれた一人の人が楽園にあげられ、人が口に表せない言葉を話したのを見たと言っています。そして彼はこの啓示を見たことを誇りたいと言ったり誇らないといったり、曖昧な態度をとります。そこにパウロの苦悩を見た気がします。このキリストに結ばれた人はパウロ自身であったともいわれています。しかし、このキリストに結ばれた人が他者であれ、パウロ自身であれ、すなわちパウロ自身が楽園に行った体験であれ、他者が楽園に行ったのを目撃した体験であれ、その事がパウロの他者に対しての誇りにつながると主は判断したのかもしれません。7節で主はサタンがパウロにとげを与えることを許されました。このとげが具体的になんであるか分かりませんが、私はこの話を聞いて、旧約聖書のヨブの話を思い出しました。ヨブは主の前に正しい生活をしていましたが、サタンはヨブが主の前に正しくしているのは主がヨブを恵んでいるからだと主張し、主はサタンにヨブを責めさいなむことをお許しになりました。 ヨブは財産を失い、家族を失い、また自身、病魔におかされました。そのあと、3人の友人と主との問答を通して、あらためて、主の正しさ、主の前にへりくだること、主に頼ることを学びそして、失った物を回復しました。パウロもまたこの事を学んだのではないでしょうか?コリントの信徒への手紙二の12章の9節から10節で主はパウロに“私の恵みは貴方に十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ”と言われました。そしてパウロは弱さを誇ろうと言っています。これは彼が主に頼ることを誇ろうと言っているのではないでしょうか?

たしかにとげというのはいやなものです。出来れば早く抜きたい。パウロ自身3度主にサタンを去らせ、とげを抜いていただけるよう願いましたが、その願いは叶えられませんでした。

私達が賜物を持つこと自体悪いことではないのです。当教会にも賜物を持った方々がいらっしゃいますが、その方々のおかげでこの教会が成り立っています。感謝しております。パウロもまた教会の方々が様々な賜物を持つことの大切さをコリントの信徒への手紙一12章7節から30節で語っています。また祈祷会の学びで私達はリック・ウォレン氏が書かれた「人生を導く5つの目的」という本を学んでいます。その本の第9日目のセクションで「私たちが自分の能力を発揮する時、神は微笑まれる」ということを学びました。自分の賜物を神のために使うことは御心に叶うことなのです。しかし、私たちにも時として、パウロに与えられたとげが必要なのではないでしょうか?そのとげが私たちの賜物を誇ってしまうという罪から抑制するものだと考えます。皆さんの賜物はなんでしょうか?皆さんの賜物を主の御用のために用いているでしょうか?その賜物が皆さんご自身のプライドにつながってはいないでしょうか?私達は自分たちの持っている賜物ととげの両方を考えることによって、神の御心に気づき、神に従う人生、神との良好な関係を持った人生を歩むことが出来るのではないでしょうか?

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