「賢いしもべ」
2020年11月29日 待降節第1主日礼拝
説教題:「賢いしもべ」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 12章35-48節(132,133㌻)
説教者:伊豆 聖 牧師
本日はアドベント第1主日です。ですが、そもそもアドベントとは何でしょうか?12月25日のクリスマスの前日、つまりクリスマス・イブの24日まで主イエス・キリストの誕生を待ち望む期間のことです。それまで、今日を含めて4回主日礼拝がありますので、本日をアドベント第1主日礼拝と言い、第2、第3、第4と続いていきます。本来であれば、アドベント第4主日はクリスマスではないのですが、本年度、当教会は12月25日にクリスマス礼拝をしないと決めましたので、第4アドベントがクリスマス礼拝となります。アドベントとは英語で出現という意味もありますので、この時期はキリストの出現を待ち望むという事がおわかりかと思います。アドベントは日本語で言えば、待降節とも呼ばれています。待降節の待降とは降りてくるのを待つことですから、主イエス・キリストが天から降りてくる事を待ち望むことです。
では、本日の聖書箇所に入っていきましょう。ルカによる福音書12章35節から37節の前半部分です。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
もちろん、これは喩(たと)えです。この時の主人とは主イエス・キリストまたは父なる神です。そして、僕とは私たちです。そして、私たちは目を覚まし、腰の帯を締め、家のともし火をともし、主人が家に帰ってきたらすぐに戸を開けられるようにしていなさいと主イエスは言っているのです。38節では「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」とまで、主イエスは言っています。これは私たちにとって難しいことです。特に38節は難しいことです。人間にとって睡眠は必要なことです。睡眠をとらないと体に変調をきたしてしまいます。私も何回か徹夜というものを経験したのですが、あまり健康上良くないようです。しかし、主イエスは私たちに寝てはいけないと言っているのでしょうか?私たちに健康を害してほしいと願っているのでしょうか?私は違うと考えています。先程も言いましたように、これは喩(たと)えです。35節から37節 そして38節前半で語られているのは僕としてのありよう、つまりキリスト者としてのありようを問われているのだと思います。
あなた達はキリスト者として眠ってはいないだろうか?あなた達はキリストが再び来る時、それに仕える準備ができているだろうか?というような質問を主イエスはしているのだと考えます。主イエスの再臨は突然来るのだと思います。46節で主イエスはこう言われているからです。「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」であるならば、私たちはどのようにしたら良いでしょうか?毎日をキリスト者として生きることだと思います。もちろん、この生き方も難しいです。なぜなら、私も含めて多くのキリスト者がこのように生きることが出来ていないのが現状ではないでしょうか?日曜日の礼拝には来られるのですが、家に帰り、通常の生活に戻れば、キリスト者でない方々、一般の方々と同じように考え、行動してしまう。もちろん、そのように考え、行動してしまうキリスト者の方々の中でも違いはあります。それでいいのだと考える人とそうではいけないと考える人です。そこには明確な差があります。その2重生活でいいのだと考える人はそのままの状態で、本日の聖書箇所でいうところの不忠実な僕になるのではないかと思うのです。つまり、45節から46節に書かれていることがその人の身に起こるのではないでしょうか?このままではいけないと思うことが大切だと思います。そして、少しでも礼拝、祈祷会の時だけでなく普段の生活においてもキリストの僕として、キリスト者として生活できるように神に祈ろうではありませんか。僕として私たちが期待されていることは主人に忠実であることです。私たちは教会の中でもそして外でも神に忠実でしょうか?もし、そうでないのなら神に忠実になるように祈ろうではありませんか?そして、なにより大切なことは神に、キリストに焦点を合わせるということです。このアドベントの時期であれば、クリスマスを、キリストを待ち望むということです。待ち望むということは希望を持って待つことです。一般的に言って、何かを待ち望んでいる人は多少の犠牲があってもそれを厭(いと)いません。なぜなら、その待ち望んでいる物が大きいからです。例えば、受験生であれば受験勉強、何か運動部に入っている人たちは練習をします。彼らは受験に合格すること、もしくは何か、県大会優勝といった賞を待ち望み、努力しています。彼らは勉強であれ、運動であれ、その何かを待ち望み努力します。彼らにとって何かとは朽ちるものです。しかし、私たちは朽ちないキリストを待ち望んでいるのです。であるならば、そのキリストという賞を得られるよう、神に祈ろうではありませんか。
パウロはコリント信徒への手紙Iの9章24節から25節でこう言っています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」
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