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「適格者となる」

2021年2月21日 受難節第1主日礼拝

説教題:「適格者となる」

聖書 : 新約聖書ヤコブの手紙1章12-18節(421㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 先週の17日、水曜日は灰の水曜日でした。この日からイースター(復活日)までの46日間は受難節と呼ばれており、主イエス・キリストがこの地上で受けられた苦難を思い巡らし、私達の信仰を見つめ直す期間であるといわれています。その初日の灰の水曜日の灰の意味は旧約聖書の時代から人々が神の前に罪を犯した時、灰を被り、悔い改めたところから来ています。またこの46日間から 日曜日を除くと40日間になるので、受難節は四旬節とも呼ばれています。この「40」という数字はキリスト教では意味がある数字です。主イエス・キリストが伝道を始められる前に荒れ野で40日間断食し悪魔からの誘惑をお受けになった事、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で40年間過ごした事、モーセが神から十戒を受け取るのにシナイ山で40日間過ごした事、預言者エリヤは40日間歩いてホレブ山に着き、神からの言葉を受け取った事など重要な出来事にはこの「40」という数字が使われています。この地上で主イエス・キリストは荒れ野での誘惑をお受けになり、その後、数々の試練をお受けになり、最後は十字架での死という最大の試練をお受けになりました。しかし、主イエスは私達の罪を贖い、復活されました。主イエスがこの地上で誘惑と試練にあわれたように、私達もまた、この地上での生活で試練と誘惑に遭遇します。それらが いつ、どのような形で来るのかはわかりませんが、確実に来ます。もうすでに、私も含めてそれらを経験しておられるかとも思います。そして、それらは一生私たちに付いて回ると思われます。

 本日の聖書箇所は試練と誘惑について何と言っているでしょうか?まず、12節です。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあります。試練は私達の周りの環境から来るのですが、それを耐え忍ぶことにより、神によって適格者と認められ、神を愛する人々のために用意された栄光を与えられるという事です。 

 この事は1章の2節から4節にも書かれています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブは試練に会った時、喜べと言いました。普通に考えてみれば受け入れがたい事です。試練など受けたくない、苦労などはしたくないというのが私達の本音ではないでしょうか?しかし、ヤコブは私達が試練に会った時、喜ぶべき理由をこのように言いました。「信仰が試されることで忍耐が生じる。」そして、その忍耐によって私達は「完全」になるということです。ここで重要な事は成長と完全です。私達はキリストを受け入れた事によって救われましたが、それだけでは十分ではなく、信仰が試され、忍耐を身に着け成長しなければいけない。その理由は「完全」になるためです。少し違うかもしれませんが、新入社員がベテラン社員になっていく過程に似ているかもしれません。会社に入りたての新入社員は仕事もわからず、職場の先輩達のアドバイスを聞きながら、仕事をしていきます。当然の事ながら、失敗もするでしょうし、試練にも会うでしょうが、失敗や試練を経験し、乗り越えることによって彼または彼女は成長し、やがて習熟したベテランの社員へとなっていくのです。信仰者もまた同様ではないでしょうか?信仰者もまた信仰が試されることによって忍耐を生み出し、その事によって成長し、習熟した信仰者となり、「完全」へと至るのではないでしょうか?

 パウロもまたローマの信徒への手紙5章3節から4節。で同様の事を言いました。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」さらに、彼はフィリピの信徒への手紙3章12節から14節でこのように言いました。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」パウロもまたヤコブと同様に私達、信仰者 のあるべき姿を示しました。

 これは試練を耐え忍ぶことと相反する事です。私達が試練に会う時、信仰が試され、忍耐が生じ、成長し、完全な者となっていく。これは生の道、命の道です。それとは別に私達が私達の欲望によって誘惑に陥ることによって、罪が生じ、罪が熟して死を生み出す。これは死の道です。私達の前にはこの2つの道があるのです。命の道と死の道です。そして、神様は私達に死の道ではなく、命の道を歩いてほしいと願っています。適格者となることを願っています。なぜなら、ヤコブが17節、18節で述べているように神様は完全であり、良い方であるので、完全な賜物、良き賜物を私達にくださいます。そして、真理の言葉によって私達を生んでくださいました。それは私達を滅びへと、死へと導くためではないからです。御言葉によって養われ、試練に耐え、忍耐を身に着け、完全を目指して日々歩んで行こうではありませんか。

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