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「金持ちと貧者」

  • urawa-church
  • 2023年10月1日
  • 読了時間: 8分

2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日

説教題:「金持ちと貧者」

聖書 : 旧約聖書 アモス書 6章1節-7節(1436㌻)​

​   新約聖書 ヤコブの手紙 2章1節-9節(422㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 最近といいますか、ここ数年私達を取り巻く社会はどんどん劣化していると思っています。それはモラル、価値観、道徳といったものが劣化しているということです。この事は何度かこれまで説明してきたのですが、それと同時に経済的にも私達の社会は厳しくなってきています。

物価の上昇、社会保障費、税金は上昇するが、給与は上がらないという状態です。私達が日々生活していく中でこれらを実感していると思います。スーパーに行けばこの前まで1リットルパック105円だった野菜ジュースが150円になっていたり、私は自動車に乗らないので実感があまり湧かないのですが、ガソリンの値段が上がり、一般ドライバー、タクシー・バス会社、運送会社から悲鳴が上がっています。

また、電気・ガス・水道などの公共料金も上昇し、大変です。

もちろん、これら物やサービス料金の上昇にはそれなりの理由があるのですが、だからといって私達がその分苦しい生活をするということに変わりはないのです。もし、バブル期のように給与も上昇すれば良いのですが、そうではないのでこの苦しい状況が続いているのです。もっともバブルを経験していない人たちは「最初から苦しい状態ばかりだよ。」と言われるかもしれません。こういう厳しい状況の中で最も痛手を受けているのは社会的弱者と言われる人々ではないかと思います。

仕事がなく職を求めている人たち、職はあっても低賃金で働いている人たち、職場でハラスメントを受けている人たち、住む家がない人たち等です。私は以前電話である方から相談を受けたことがあります。        

 その方は50歳代後半と言っていましたが、アルバイトで低賃金で働いているとのことでした。ですが、職場で酷いハラスメントを受けていて、辞めるかどうかを悩んでいるとのことでした。私はその方にいわゆる公的な機関、例えばハローワークに相談したほうがいいのではないかとアドバイスをしました。ですが、彼が言うにはあまり期待できないということでした。というのは職員があまり真剣に取り合ってくれないとのことでした。そしてその職場ではもう何人も辞めていて、自分も辞めたいが辞められないと言っていました。結局、年齢が50歳代後半なので辞めてもどこも雇ってくれないだろうということでした。私としても何か実質的なアドバイスをしてあげたかったのですが、力不足で出来なかったので悔やまれます。

 もちろん、相手も私が労働関係の専門家でないことは分かっていたと思いますし、実質的な解決を期待したのではないと思うのです。

ですから、相手は自分の不満を受けてほしかったのだと思います。

自分を否定せず、承認をしてほしかったのだと思います。なぜなら、彼の職場では彼を否定するというか彼を無視するということが行われていると言っていましたから。そして最後に彼はもう少しその仕事を続けると言って電話を切りました。数年前は派遣切り、雇い止めといった言葉が流行し、若者達の厳しい就職状況が明らかになりました。ですが、今ではこのようにもう年齢的にもかなり上の方々が働くのに苦労する状況です。もちろん、「例え、あなたが高齢であっても仕事を選ばなければ働き口なんていくらでもある。」という意見がありますし、実際そうだと思います。私も街中で多くのご高齢の方々が働いているのを見ています。


 ですがやはり何かおかしい気がするのです。2020年度からコロナが始まりました。これは会社、特に飲食店業界を直撃しました。バブル期から経済が落ち込んできたのですが、ここからさらに経済が落ち込んだと思います。しかし、驚いたことに去年の税収が過去3年連続最高益でした。過去最高益?税収が最高益と聞くと、経済が良くなり、給料も上がって良かったからと普通であれば、思いがちですが、私達にはそんな感覚は微塵もないのです。一般的な人たち、特に社会的弱者は経済的に大変だと感じていると私は思います。

 

 さて、本日の第一の聖書箇所のアモス書です。これは主が預言者アモスを通じてイスラエル王国(北王国)とユダ王国(南王国)に対して警告を発するものなのです。預言者アモス自身はユダ王国出身とされています。1節です「災いだ、シオンに安住し サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。諸国民の頭である国に君臨し イスラエルの家は彼らに従っている。」

シオンとはユダ王国のことで、サマリアはイスラエル王国の首都を指しますので、イスラエル王国のことです。元々は一つの国でしたが、分裂したのです。そして、両方の国とも主から離れてしまったのです。さらに彼らは勝手気ままに我が身の春を謳歌していたということでした。彼らは実際には近隣の国々を支配していたわけではないのですが、そういう気になっているほど驕り高ぶっていたということがこの節の後半部分でわかります。


 ですが、主はそんな驕り高ぶっていた彼らにこのように冷水を浴びせられるのです。カルネ、ハマト・ラバ、ペリシテ人のガトは近隣の栄えた町々です。ユダ王国、イスラエル王国の驕り高ぶっていた人たちはこれらの栄えている町々よりも自分たちの国々の方が経済的に栄えていると思っていました。ですが、そんな彼らに対してこう仰るのです。

「実際にそれらの町々に行ってみて、観察し、比較してみろ。現実を見ろ。」とですから、多分なのですが、それらの町々のほうがユダ王国、イスラエル王国の栄えっぷりよりもさらに良かったのだと思われるのです。ですが、ユダ王国、イスラエル王国のお金持ちで驕り高ぶっていた人たちは見栄もあったのでしょうが、「自分たちの方が優れている。自分たちの方が金持ちだ。」と考えていたのでしょう。

ちなみにこの実際はユダ王国、イスラエル王国よりも栄えたこれらの町々も後にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。そして、イスラエル王国もまた同じ運命をたどり、ユダ王国はバビロニア帝国によって滅ぼされてしまいました。

 3節で主は両国が滅ぼされる日を災いの日と表現しています。3節全体を見てみましょう。

「お前たちは災いの日を遠ざけようとして不法による支配を引き寄せている。」

両国とも他国に滅ぼされるのですが、そのような兆しがあったのかもしれません。ですが、そんなことは見たくない、聞きたくない、知りたくないということだったのかもしれません。そして今を刹那的に生きる、お金を使い、楽しく生きていたのかもしれません。しかし、それは主の目線からすれば、そのように生活することによって不法による支配(アッシリア、バビロニアによる征服)を招き寄せているということです。4節、5節では彼らは貧しい人たちの労働から得た子羊や子牛を使って祭りをすると主は批判しています。

4節の表現に注目です。「象牙の寝台に横たわり 長いすに寝そべり」とあります。これはいかに彼らが贅沢な生活をしていたかを示すことではないでしょうか?そしてこの彼らの贅沢な生活を支えるために多くの貧しい労働者がいたことを暗示させます。


 さらに、この祭りは主のための祭りではないことがわかります。

お金にあかせて、多くの労働者の労働と犠牲の上に成り立った小羊や子牛を取って祭りの犠牲にすることもさることながら、「竪琴の音に合わせて歌に興じ...大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。」という表現です。5節から6節です。これは主のためでなく、自分たち自身を満足させるためにほかなりません。

にもかかわらず、「ダビデのように楽器を考え出す。」とは皮肉としかいいようがありません。というのも、ダビデはご存知のように楽器を奏楽する名人でした。ですが、彼の奏でる音楽は主のためにあったのです。そのダビデをここに持ってくるとはという思いです。

 6節の後半部分ではまた「現実を見よ。」と主は仰せられています。

「ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」ヨセフとはあのエジプトで宰相にまでなった人です。イスラエル王国は彼の子孫から始まっていますから、ヨセフの破滅とはイスラエル王国の破滅です。そして、イスラエル王国の破滅にたいして関心がなく、先程申し上げたように、自分たちの贅沢な生活にだけ関心があるということです。

このことがどういう結果を招くかは7節に書かれています。

 もちろん、私達はこれらのイスラエル王国やユダ王国の王侯貴族のように贅沢な暮らしをしているわけではありません。むしろ、逆に一般社会人としては社会的弱者に近いのかもしれません。ですが、今の社会を見てみると、私達の犠牲のもとに生活をしている人たちがいるのです。海外研修と称して、海外旅行に行く国会議員。物価は上昇し、税金、社会保障費は増え続ける。経済状況が苦しいからといって給与は上げず、経済が多少好転しても、会社のさらなる設備投資と成長、万が一のための備えとして社内留保金が必要として、結果として、社員の給与は変わらないで、会社と会社役員だけが潤う社会。こうした社会の一部の人間たちだけが得をする社会というのは当時のユダ王国やイスラエル王国とあまり変わらないような気がするのです。そして主はこのような事を望まれていないのではないでしょうか?


 私はいままで広い範囲で、つまり国単位で話してきましたが、本日の2番目の聖書箇所はもう少し狭い範囲といいますか、私達自身、もしくは私達のコミュニティでの事ですね。人を偏見で見てしまうとうことは私達にはよくあることです。特にお金を持っているか、持っていないかということ、そして身なりによって人を判断してしまうのです。そして良い身なりの人をよく扱い、貧しい身なりの人を酷く扱うというのもやってしまいがちです。ですが、ヤコブはその事はいけないことである、主の御旨にかなっていないと言うのです。主イエスがこの地上で伝道をなさっていたときはあえてそのような人々の所に行って伝道をなさいました。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

 そして私達もまた身近な範囲ではヤコブが批判するような態度をとってしまうことがあります。私達にも偏見があるのです。ですから、私達は人に頼るのではなく、主に頼り、驕ることなく、分け隔てなく人に接することが必要なのです。私達自身でそれをしようとしても駄目なのです。聖霊に導いてもらわなければいけません。祈りましょう。

 
 
 

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