「隣人愛」
2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝
説教題:「隣人愛」
聖書 : 旧約聖書 レビ記 19章13、16、18節(192㌻)
新約聖書 ルカによる福音書 10章25-37節(126㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日の聖書箇所ルカによる福音書はある律法の専門家(律法学者)が主イエスに質問することから始まりました。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか。」その質問に対して主イエスは質問で返しました。面白い場面です。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」
その律法学者はこのように答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ここで大切なことは神を全身全霊で愛するという事と隣人を自分のように愛するという事を同列に挙げていることです。どちらか一つが重要ではなく、どちらも重要だということです。主イエスご自身もこの律法学者の答えが正しいと28節で認めました。さらにマタイによる福音書22章34節から40節でファリサイ派の中の律法学者の一人に「律法の中でどの掟が最も重要か」と問われた時、主イエスは第一番目の重要な掟として「全身全霊で神を愛すること」を最も重要な掟として挙げるのですが、「隣人を自分のように愛すること」も一番目と同じように重要だと言われました。実際にレビ記19章の13節、16節、18節にも隣人に対する配慮、隣人愛に関する事が書かれています。
ですが、ここで主イエスに対してさらなる質問をこの律法学者はしました。「では、わたしの隣人とはだれですか」29節です。ここで重要な事はこの質問者の動機です。「彼は自分を正当化しようとして、」と同じ29節にあります。つまり、彼は自分が普段、愛する行動、もしくは親切な行動をしている人々を限定しようとしていたのかもしれません。私はご近所の人々や知り合いに、これだけ愛する行動や親切な行動をしているから、神に認められ、永遠の命を得ることが出来るという確証が欲しかったのかもしれません。これは行いの救いもしくは行いの信仰と呼ばれるものです。私は律法に定められた隣人を愛するという規定を守っているから救われるのだという考え方です。しかし、永遠の命はそのような杓子定規な事で得られるものではないのです。この後、主イエスはこの律法学者の「では、わたしの隣人とはだれですか。」という質問に対して、喩えで答えられるのですが、それはこの律法学者にとって彼のプライドを打ち砕く、衝撃的なものでした。
ある人がエルサレムからエリコへ下る途中で追い剥ぎにあい、半殺しの目に遭ったという所からこの譬えが始まります。エルサレムからエリコへの道というのは当時、治安が悪く、追い剥ぎも多かったということから、この喩えもあながちフィクションではなかったのかもしれません。そして、この半殺しにされ道に放置された人を三人の人物が発見しました。彼らは祭司、レビ人、そしてサマリア人でした。祭司とレビ人はこの人を見たのですが、道の向こう側を通って行ったということです。祭司とレビ人はどういう人物でしょうか。彼らはただのユダヤ人ではありません。祭司は神と一般のユダヤ人との仲保者であり、祭儀を取り仕切る人物です。レビ人もまた祭儀の重要な役割を担う人々です。いわば彼らはユダヤ人の中でも神に近く、聖なる人々であるのです。その彼らがこの追い剥ぎにあった人物を無視し、隠れるように、自分が追い剥ぎの被害にあわないように、行ってしまったというのです。31節と32節に書かれている表現「その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」という表現からも彼らの心情が見て取れます。ユダヤ人の中でも神に最も近く、神に仕える人々がこの追い剥ぎに遭った人に憐れみを見せず、「自分のように隣人を愛せよ」という律法に背いてしまったのです。この律法学者にとって衝撃的だったかもしれません。
さらに、衝撃的だったのはこの二人の後に、サマリア人が通りかかるのですが、彼はその追い剥ぎにあった人物を憐れに思い、傷の手当をし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れていき、介抱したということでした。さらに、宿屋にお金を払い、介抱するように頼み、もし彼が払った以上にお金がかかるのであれば、帰りがけにその分を支払うとまで言ったのです。サマリア人はユダヤ人にとって忌み嫌われる存在でした。旧約聖書時代にユダヤ人の国が北王国(イスラエル王国)と南王国(ユダ王国)に分かれていた時代がありましたが、北王国はアッシリアに南王国はバビロニアに滅ぼされました。そして北王国にいた指導的地位にあった人々は他の土地に移され、その他の人々は残されましたが、そこにアッシリアからの移民が流入し、その残された人々との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれたのです。ユダヤ人にとって、異邦人は他の神々を崇拝する人々であり、旧約聖書時代、度々ユダヤ人達は異邦人の影響で異邦人の神々を崇めました。そのせいで、イスラエル王国、ユダ王国とも滅ぼされたのです。ですから、異邦人や異邦人との混血はユダヤ人にとって忌むべき存在であったということです。ユダヤ人がサマリア人を避ける習慣は他の聖書箇所、例えばヨハネによる福音書4章1節から9節に書かれていますので、ご参考にされてはいかがでしょうか。話を戻しますと、主イエスに問いかけをしたこの律法学者は驚いたと思うのです。なぜなら、ユダヤ人の中でも清い祭司やレビ人が律法で最も大切な掟の隣人を愛する事を破り、忌み嫌う、清くないとみなしているサマリア人がこの大切な掟を実践するのですから。
ここで大切なことは神のスタンダードは律法学者が考えているものとは全く違うということです。この律法学者が考えていたのは 隣人というものを規定して、あることをすれば(もしくは、し続ければ)それで永遠の命を得ることが出来るということです。いわゆる律法主義、成果主義、そして行いによる信仰や救いなのです。ですが、永遠の命を得ることはそのようなものではないのです。数学の連立方程式や化学式のようなものでもないのです。もちろん、このサマリア人も行いによって彼の隣人愛を示しましたが、これは前述したような律法学者が考えていたものではないのです。「その人を見て憐れに思い、」と33節に書かれています。この憐れみこそが、隣人愛であり、このサマリア人にこのような尊い行動をさせたのです。そして、この隣人愛こそが主イエスが私達に与えたものなのです。その人の外側の地位は関係ないのです。関係があったら、そこを通った祭司やレビ人が憐れみを示し、介抱していたはずです。
今こそ、私達にはこの隣人愛が求められていると思います。なぜなら、私達の世界は徐々に寛容性がなくなっていると思うのです。新型コロナウィルスの影響でマスクをすることやソーシャルディスタンスを取ることが必要なのは分かるのですが、必要以上に厳しくなっている気がします。そして、ある著名な方がソーシャルメディアを通じて「生活保護の人よりネコを救ってほしい」、「ホームレスの人の命なんてどうでもいい」というような発言をしたとのことです。そのことでこの方は非難されているそうです。しかし、これを他人事とするわけにもいかないのです。なぜなら、私達の中にも同じ物があるからです。さらにいえば、主イエスに質問をした律法学者が抱いていた律法主義(なにかルールに従っていれば、それで救われる)、もしくは祭司やレビ人の自己保身が私達の中にもあるのです。私達は今こそ、主イエスにこれらのもの一切合切を取り去って頂き、あのサマリア人のような隣人愛を持ち、それを示せるように祈ろうではありませんか。私達は世の光、地の塩になることが出来るのです。もちろん、それは私達の名誉のためではありません。すべてはキリストの栄光のためです。
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