「雄々しくあれ」
2021年4月18日 復活節第3主日礼拝
説教題:「雄々しくあれ」
聖書 : 旧約聖書 民数記14章6-12節(235-236㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
エジプトで奴隷の状態であったユダヤ人を主がお救いになり、エジプトから連れ出された事が出エジプトという出来事です。多分皆さんもご存知かと思います。この事は今を生きるユダヤ人にとっても特別であり、何度強調しても強調しきれない出来事です。私は以前アメリカに留学していた時、勉強のためユダヤ教の祈祷会に参加させていただいた事がありました。祈祷会の間に強調されていた事はこの主なる神が奴隷状態であったユダヤ人達を解放し、彼らをエジプトから連れ出された事でした。私達キリスト者にとって、私達の罪の贖いのために十字架にお掛かりになられた事が重要なように、ユダヤ人にとってはこの出エジプトという出来事が重要なのです。
しかし、このユダヤ人にとって重要なそして喜ぶべき出エジプトという出来事も全体を通して見れば万事が上手くいった訳ではありませんでした。主は彼らを彼らが奴隷であった地であるエジプトから導き出し、彼らの先祖に約束した豊穣なカナンの地に導き入れようとしましたが、彼らは度々主に逆らい、主を怒らせました。そして、今回、彼らが主に逆らった事によって、主の怒りが頂点に達してしまいました。主は彼らを砂漠で40年間を過ごさせ、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ以外は砂漠で死に絶えさせました。結果としてヌンの子ヨシュア、エフネの子カレブ、そして死に絶えたユダヤ人たちの子孫たちだけが約束の豊穣な土地カナンに入ることを許されたのです。
一体何が起こったのでしょうか?事の起こりは同じ前章13章に書かれています。部族ごとに一人ずつ選び、カナンの地の偵察隊を作るよう主がモーセに命じました。民は12部族でしたので12人でした。彼らは主が与えるといった土地を偵察し、帰ってきました。彼らの報告ではその土地はすばらしい土地であるということでした。しかし、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブと一緒に行った人々はこの良い報告だけでなく、悪い報告も伝えました。それはその土地には彼らよりも強い人々が住んでいるので、彼らがその土地に入り、占領することは不可能であるということです。実際に彼らが言ったことを見てみましょう。「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い(民数記13章31節)「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ(中略)我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない。」(民数記13章32-33節)
このような否定的な意見に対して同じく偵察に行ったカレブは彼らとは違い、占領できると言いました。そして、ヨシュアもまたカレブと同じくその土地に上っていくべきであり、占領できると確信しました。ヨシュアとカレブ、そして残りの10人の偵察隊は多少の違いはあれ、その土地を同じように偵察し、同じような光景を見たはずです。ヨシュアとカレブは他の10人と同じく巨人たちを見たはずです。ではなぜ、こうも意見が違うのでしょうか?一般的に見れば他の10人の意見の方が正しいのです。その土地に住んでいる住人は巨人であり、エジプトの奴隷の状態から解放されて出てきた弱い彼らがこれらの巨人達に勝てる道理がないのです。事実この10人の意見に同胞のユダヤ人たちは同調し、絶望に打ちひしがれました。その様子は民数記14章1節から4節に書かれています。「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。『エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れてきて、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返したほうがましだ。』そして、互いに言い合った。『さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。』」 もう一度言いますが、一般的に見れば彼らの意見が正しいのです。しかし、彼らは主と彼らの先祖との約束に基づくご計画を否定し、彼らのリーダーであるモーセとアロンを否定しました。それは彼らが彼らの神である主を否定したのです。確かに現実を見れば彼らにあの巨人たちを倒せるはずがありません。しかし、彼らはエジプトを出る時に様々な主の御業を目の当たりにして、救われてきたのです。主がエジプトと戦われ勝利したのです。にもかかわらず、彼らはこのような状態になってしまいました。なぜでしょうか?それは彼らが目の前の事しか見えなかったからです。主に信頼していなかったからです。巨人と戦って勝つことはできないという事は当然です。しかしそれは彼ら自身の力だけを持ってすればということです。もし、主にあって巨人たちと戦うのであれば必ず勝てるという事を彼らは分かっていなかったのです。そこが、彼らとヨシュア、カレブとの違いです。ヨシュアが民に言ったことを今一度見てみましょう。民数記14章8節から9節です。「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」注目すべきは「我々が主の御心に適うなら」、「主に背いてはならない」、「そこの住民を恐れてはならない」「主が我々と共におられる」という言葉です。これは私達キリスト者に対する言葉でもあります。私達が日々歩む道とは「主の御心にかなうよう」「主に背かず(主に従い)」「主が我々と共にいるという確信を持って」「主以外の者を恐れず」生きる事です。それが信仰を持って歩む事です。ヨシュアとカレブにはそれがありましたが、偵察隊の残りの10人とモーセとアロンを除いた他のユダヤ人たちにはそれがありませんでした。彼らはヨシュアとカレブを殺そうとまでしました。その時、主の栄光が現れ、主が憤りを持って民を疫病で滅ぼそうとしますが、モーセは主に訴えてこの民の罪をとりなし、主はその事を思い留められます。しかし、この時逆らった民は砂漠の40年で亡くなりました。ヨシュアとカレブそして逆らった人達の子孫が約束の地に入れたのです。
現実を見て物事を判断し、計画することは大切なことですが、現実のみで判断するのは私達キリスト者の生き方ではないのでしょう。もちろん、私達は常にヨシュアやカレブのような信仰を持っているわけではありませんし、持っていたとしてもそれを保ち続けることは難しいと思います。しかし、そのことを意識しなければ私達はこの世に埋もれてしまうのではないでしょうか?そして私達は世の光、地の塩となりえないのです。ですから、ヨシュアとカレブのような信仰を持ち日々歩めるよう、聖霊に働いていただくよう祈ろうではありませんか。
Opmerkingen