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「霊的な家」

2020年9月20日 9月第3主日礼拝 

説教題:「霊的な家」

聖書:新約聖書 ペトロの手紙一  2章4-10節(429,430㌻)       

説教者:伊豆 聖牧師


本日から6日後の9月26日、当浦和教会は小規模ながら献堂式を行います。この様に新しく、素晴らしい教会堂が与えられ、私達は神に感謝すると共に、この新会堂建設のため協力していただいた方々に感謝しております。そして、私達は嬉しく思っております。ある教会員の方が仰られるにはこの様な新会堂を建てられるとは思っていなかったそうです。しかし、この素晴らしい新会堂は建ちました。感無量です。そして、新型コロナウィルスの影響で延期されていた献堂式も行われることは本当に素晴らしいことだと思っております。

確かに教会堂が新しいことは重要だと私は考えております。本教会員の方々は以前、大変厳しい状況の中で、礼拝を保っていたので、やはりこの新会堂が与えられたことは感謝だと考えているでしょう。しかし、この書簡を書いた使徒ペトロは教会を単なる建物だとは考えていませんでした。4節でペトロはまずこう言います。「この主のもとに来なさい。」私達キリスト者にとって主イエス・キリストとの交わりは大切です。いや、大切という言葉では充分ではありません。主イエスとの交わりは必要不可欠です。主イエスは主と私達キリスト者との関係をぶどうの木と枝という喩えで話されました。それはヨハネによる福音書15章1節から17節に書かれておりますので、後で読まれたほうがよいかもしれません。その中から数節引用させていただきます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15:4-5)ペトロが4節で冒頭「この主のもとに来なさい。」と言ったのは、私達がこの主のもとに来て、主と私達キリスト者との間でこのぶどうの木とぶどうの枝の関係を作ることが重要なのではないでしょうか?

使徒ペトロはさらに4節で主を「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」と喩えました。なぜ、「石」なのでしょうか?

それは神の建物を作るためだからです。さらに言うならば、この石は「生きた石」です。命をもっているだけでなく、私達キリスト者を成長させます。主イエス・キリストは命であり、私達キリスト者を成長させるのです。5節の前半部分で使徒ペトロはさらに、こう言います。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」私達キリスト者もまた主イエス・キリストの様に命を持ち、キリスト者を成長させる「生きた石」として、「霊的な家」(神の建物)の建設のために神に使われることができるのです。どのようにしたら、可能なのでしょうか?

「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と5節後半にあります。「聖なる祭司」というと、みなさんは自分なんかとんでもない、そんな身分ではないと思われるかもしれません。しかし、私を含め皆さんは主イエス・キリストを信じたことにより、この世から贖われた、神の者となったのです。そういう意味で聖なる者といえます。そして、祭司とは旧約聖書時代は神と罪を犯した民との和解を仲介する役割を担っていました。この時代では神とこの世との和解を担うものだと思います。ですので、私達キリスト者が「聖なる祭司」と呼ばれる理由は私達が主キリスト・イェスを信じることによって、罪を赦され、神とこの世との和解を担うことだと使徒ペトロは言っています。神とこの世との和解のためにはいけにえが必要ですが、私達が捧げるいけにえとはなんでしょうか?私達が福音を宣べ伝えることによって主イエス・キリストの元に来られる人々、私達の体や賛美や神のために行うすべての事、そして献金などもあるかと思われます。しかし、なによりもそれらをする上で必要なことは聖霊の働き、私達の神に対する愛、そして主イエス・キリストであると思います。教会とは建物ではなく、こういう祭司の集団であると言えます。私達の教会はどうでしょうか?6節から8節ではあらためて、ペトロは私達キリスト者にとってキリストが家を建てるためのかなめ石(6節)、隅の親石(7節)であり、信じない者たち(例えば、キリストを拒絶したユダヤ人たち)にとっては捨てた石(7節)、もしくはつまずきの石(8節)、妨げの石(8節)と言っている。わたしたちは家を建てているのです。それは目に見える建物、例えば、この新会堂ではありません。それは目に見えない建物です。神の建物です。霊的な家です。そして、「かなめ石、隅の親石、そして神に選ばれた尊い、生きた石」がキリストです。もし、キリストが私達の中でそのような存在ではなく、逆に「捨てた石」「つまずきの石」「妨げの石」となっているようであれば、私達のなかで、神の建物、霊的な家は建てられません。そして、もし私達がそういう状態であれば、私達は聖なる祭司の集団ではありえないのです。

本日の最後の聖書箇所の9節から10節でペトロはこう言っています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。」

ペトロの力強い励ましの言葉です。この言葉は申命記でモーセがイスラエルの民に語った言葉を基にしていると言われています。

例えば申命記10:15でモーセは「主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。」と語り、また「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」(申命記7:6)とイスラエルの民に語りました。モーセはイスラエルの民を励まし、ペトロもまた手紙の相手を励ましている。その励ましは私達にも受け継がれているのです。私達は恵みの中にいるのです。ですから、献堂式を迎える前にもう一度私達の状態を吟味しようではありませんか。


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