「高ぶりとプライド」
2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日
説教題:「高ぶりとプライド」
聖書 : 旧約聖書 サムエル記下 12章1節-10節(496㌻)
新約聖書 ルカによる福音書 18章9節-14節(144㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私は自分に自信を持って生きるということは必要なことだと思います。自分に自信がないと、いつもオドオドして、下を向いて歩くようになってしまい、健康上よくありません。また、周りの人間も「あの人は暗い人で、付き合いづらいですね。」と言い出し始め、周りから孤立してしまうようになります。もちろん、孤立をさせることがいじめであり、私達はそういう個性を認める多様性のある社会を認めるべきであるという考え方もあるでしょう。ですが、自分に自信がなく、オドオドしている人は人から不審がられ、孤立しがちであるというのは世の常なのかもしれません。ですが、逆に権力などを持ち、自分に自信を持ちすぎるのもまた問題です。権力や自信を持ちすぎることは人を高ぶりや悪い意味でのプライドに導いてしまい、彼に愚かな行為、主の御心に適わない行為、罪を犯させるからです。
本日の最初の聖書箇所はナタンの叱責とあります。主が預言者ナタンをダビデ王に遣わし、ナタンは王を叱責するということです。正確には主が預言者ナタンを通して王を叱責するのですが。
さて、少し話はそれるのですが、聖書で重要な役割を担う職責が3つあります。王、預言者、祭司です。王は皆さんもご存知だと思いますが、地上の世界を統治する人間ということです。イスラエルでは主に選ばれ、預言者から油を注がれ任命されました。ダビデ王もそうでしたし、ダビデ王の前の王、サウル王もそうでした。預言者も皆さんご存知だと思いますが、主からの言葉を民に伝える役割を担います。もしその国の王が主の御心に背く行動をしていれば、王にすら、反対意見を述べるのです。祭司は主と民との仲立ちをし、祭儀を執り行う人々です。
このように重要な役割は三者に分かれていました。少し違うかもしれませんが、現代の社会は三権分立、つまり立法、司法、行政に分けられていますね。そのように古代の社会でも社会で果たすべき役割が分けられていたということです。ですから、ある職分を持った者が別の職分を行うことはタブーとされていました。そして聖書では度々そのタブーが行われ、主の怒りを引き起こしました。例えば、王が祭司がするべきことをしてしまい、主の怒りを引き起こすといった事です。唯一それが許される方、王、祭司、預言者を兼ねるお方こそ、我らが主イエス・キリストです。主イエスは王であり、十字架にお掛かりになられ、神と私達との和解をなされた祭司であり、地上での伝道をなされていたころから父なる神の言葉を預かり、私達に伝道をされてこられた預言者です。
さて、本日の第1の聖書箇所に戻ります。主が預言者ナタンを通してダビデ王を叱責する場面です。ナタンは1節の後半から4節まで喩え話をします。二人の男がある町に住んでいて一人は豊かで、羊や牛を数多く持っていたが、もう一人は貧しく、一匹の雌の小羊だけを持っていた。彼はその一匹の小羊を大事に育てていた。ある日一人の客が豊かな男を訪れるが、その男は数多くの羊や牛を持っているにも関わらず、その羊や牛を屠ってその客をもてなすのを惜しんで、もう一人の貧しい男から、彼が大事に育てていた小羊を取り上げて、屠って、その客をもてなしたということです。確かにこの豊かな男の行為は悪と思いますし、事実この話を聞いたダビデ王は激怒し、このように言いました。
「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
(サムエル記下12章5節)
この預言者ナタンの話しは喩え話です。どういうことかといいますと、ダビデ王とバト・シェバとの不倫についてなのです。
ある日ダビデ王はバト・シェバという女性を見初めましたが、彼女はヘト人ウリヤの妻でした。ですが、王は彼女を召し入れ、関係を持ち、結果として彼女は妊娠してしまいました。ダビデ王は戦に出ている彼女の夫ウリヤを呼び戻しました。多分ですが、呼び戻したウリヤが家に戻り、彼女と関係を持つだろうと考えたと思われます。もし関係を持てば、お腹の子はウリヤの子であると主張することができるからです。しかし、ウリヤは彼の直接の主君のヨアブや家臣が戦っているのに、自分だけが家に帰ったりすることは出来ないと言い、家に帰らず、王宮の入り口で家臣と共に眠りました。
次にダビデ王が取った手はウリヤの主人のヨアブに書状をしたため、ウリヤに託し、ウリヤを戦場に送り返すことでした。その書状にはこう書かれてありました。
「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ。」(サムエル記下11章15節)
ウリヤの主人ヨアブはダビデ王の指示通り行い、ウリヤは戦死しました。ウリヤの妻バト・シェバは夫の死を嘆き、喪が明けると、ダビデ王は彼女を妻とし、彼女は男の子を産んだということです。
バト・シェバを妻にするダビデ王の行為は主の御心に適わなかったとサムエル記下11章27節に書かれています。
そういう事を受けてのこの預言者ナタンの喩え話によるダビデ王への叱責なのです。この喩え話に出てくる「豊かな男」はダビデ王を指しますし、「貧しい男」はウリヤです。つまりダビデ王には複数の女性がいたにも関わらず、一人のバト・シェバを愛していたウリヤから彼女を取り上げるのは悪であり、罪であるということです。
そもそも、たとえダビデ王に複数の女性がいようがいまいが、他人の物を欲しがること自体、律法で禁じている貪りにあたるのです。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
(出エジプト記20章17節)
それは主イエスが仰いました律法で第2に大切な掟に帰結します。
すなわち「隣人を自分のように愛しなさい。」
(マタイによる福音書22章39節)
預言者ナタンはこれまで喩えで話してきました。そして、ダビデ王もそれを喩え話として捉え、その行為をした人物に対して憤りました。
しかし、7節でナタンは「その行為をした人物こそあなたです。」とダビデ王を糾弾し始めたのです。ダビデ王の顔色は真っ青になったことでしょう。自分が憤った相手が自分自身なのですから。そして、9節、10節でダビデ王の罪、すなわち、ウリヤの妻を奪ったこととウリヤをアンモン人の剣で殺したこと、そして罰が言い渡されます。
さて、ダビデ王の罪とはなんでしょうか?牧師先生勘弁して下さい。先程もう既にご自身で仰いましたよね。
ウリヤの妻を奪ったことでしょ。確かにそうなのですが。
もう少し詳しく見ていきたいのです。ダビデ王は奪っただけでなく、ウリヤを呼び戻すことによって自分の罪、すなわちバト・シェバと関係を持ち、妊娠させてしまったということを隠そうとした。しかし、その計画が頓挫すると、今度はウリヤを戦争の激戦区に送り、戦死させ、その後に彼女を妻とした。つまり、罪を隠し、敵の手を使って(ヨアブに手紙を送っているので、味方の手も使っているのですが)ウリヤを殺したということです。ただ単に奪っただけでなく、隠蔽と殺人を行ったということです。
ではなぜダビデ王はこのような事を行ったのでしょうか?
バト・シェバが魅力的だったからでしょう。確かにそうでしょう。ですがそれだけでしょうか?自分はイスラエルの王である。戦争はまだあるが次第に収まってきた。主が私にはついている。そういう自信がやがて悪い意味でのプライドと高ぶりにダビデ王を追いやってしまったのではないか。自分は何でも出来る。ウリヤの妻を奪うためなら自分の権力を使って何でもしよう。ウリヤを殺すことだって厭わない。
ここに高ぶりがあり、罪があるのです。
ある大手芸能事務所に所属していた多くのタレントがそこの元社長(もうお亡くなりになられたのですが)に性的被害を受けてきたということが最近明らかになってきました。イギリスBBCが報道したり、最近では国連の調査団が来日され、調査をしているとのことです。
以前から元タレントらが告発本などを発行し、この事を糾弾してきたのですが、日本の大手マスメディアは無視してきました。そして数年前には民事で裁判が起こされ、この社長による性的被害が認定されましたが、日本の大手マスメディアは無視し続けました。それだけその事務所、そして元社長の権力が強かったのでしょう。
なぜ、この元社長はそのような行為を続けてきたのでしょう。
もちろん、タレントたちに魅力を感じたからでしょう。ですが、それだけでしょうか?自分は日本で最も影響力のある芸能事務所の社長だ。私の考え一つで誰をデビューさせ、誰をデビューさせないか、決めることができる。テレビ局、新聞、ラジオといったマスメディアも私の言う事を聞く。そういう性的な行為をし続けていても、誰も私に逆らうことは出来ない。高ぶり、権力、プライドであり、罪です。
ここの元社長はクリスチャンでないからそういうふうになってしまったんですよと言われる方もいるでしょう。しかし、ダビデはクリスチャンではありませんが、旧約聖書時代に主なる神に愛された人物です。メシアは肉によればダビデの子です。そのダビデですらこの様になってしまうのです。そして、このダビデの罪に対する直近の罰は彼とバト・シェバとの間に生まれた息子が亡くなる事でした。もちろん、これ以降も主のダビデに対する罰はあるのですが。
本日の第2の聖書箇所はファリサイ派の人と徴税人の祈りについてです。ファリサイ派の祈りは自分自身がいかに正しいかという事をあげつらい、さらには徴税人を貶めています。これははたして祈りなんでしょうか?それに対して徴税人の祈りは「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。」でした。
ファリサイ派の祈りは自分の高ぶり、傲慢、プライドが滲み出ている独りよがりの祈りです。もっと言うならば、罪といっていいでしょう。
ですが、徴税人は自分の罪を自覚し、悔い改めつつ、憐れみを求める祈りです。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51章19節)
ですが、私達はこのようなダビデやファリサイ派の人のようになりえるのです。だからこそ、私達は主に「へりくだる心を、キリストの心を与えて下さい。」と祈るのです。
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